ことばの話 ~「いる」と「ある」
以前の職場で、英語ネイティブの人と仕事をしていた。彼との会話のほとんどは、日本語でなされていた。
そのとき、彼がなんと言ったのか正確には覚えていないが、いるとあるの区別がおかしかったので、
「そこはいるじゃなくてあるだよ」
と、教えた。
そこからこの話は広がった。
「いるとあるの違いは何」
(※ワタクシは日本語の文章の中に?を使わない。ご了解あれ)
「えっと、生きているかどうか、かな」
よくありがちな説明をしてしまったが、これは正しくない。日本語ネイティブは無意識に使い分けているが、どのような理屈で使い分けているかを意識している人はあまりいないだろう。
「じゃあ、植物はいるんだよね。『木がいる』『花がいる』になる」
「いや、それは変。『木がある』『花がある』」
「それじゃあ、定義は『生き物かどうか』じゃないよね。心臓があるかどうかじゃないかな」(心臓がいる、とは言わないな...)
この会話がどう終わったのか覚えていないのだが、ワタクシはこの「心臓の有無説」に妙に納得がいっていた。
先日、テレビでウイルス除去効果があるという空気清浄機のCMをやっていた。その中で、こう言っていた。
「ウイルスはそこら中にいる」
と。
ウイルスには心臓はない。なのにあるではなくいるを使う。「ウイルスはそこら中にある」は、日本語として変だ。
何年も前の「心臓有無説」が頭を過り、この使い分けが気になり始めた。
・人がいる / 死体がある
・車がいる(運転手が乗っている感じ) /
車がある(無人で停めてある感じ)
・猫がいる / 猫の置物がある
なんだ、そういうことか。「動くか動かないか」で使い分けられているんだ。たぶん、「可能性を含めて動くか動かないか」なのではないだろうか。
例えば刑事ドラマの聞き込みのシーンで、「あそこにずっと変な車がいました」と言えば、運転手が乗っていることが想像され、「あそこにずっと変な車がありました」であれば、車のみが停められていたと想像されないだろうか。
「大きな木がいる」は、木の精でも宿っているかのような擬人化に聞こえるが、「大きな木がある」だと、大きな木がただ生えている描写となる。
わかってしまえばすっきりした。
今、ワタクシのPCの隣には、置物のような猫がいる。置物のようだけれど生きている猫なので、いるで正しい。
言葉について考えるのは、おもしろい。
興味を持ってくださりありがとうございます。猫と人類の共栄共存を願って生きております。サポート戴けたら、猫たちの福利厚生とワタクシの切磋琢磨のために使わせて戴きます。