卓上のオカルティスト そっとおやすみ(8)

13

あっと声を上げた。

見森野梨花まみもり・のりかは転倒した。何かに躓いたのではない。
頭を殴られそうになったのだ。
視線を上げると不満の渦がそこにあった。
荷置伯敬になおき・はくたかの顔が自分を見下ろしていた。
——後をつけていたのがばれたのか。
うかつうかつ、と野梨花は呟いた。ふざけている場合ではないのだが。
「——かっこうしやがって」
荷置が何かを言っている。
「え?」
「きれいな恰好しやがって。丸の内OLかよ」
「性差を含んだ言いがかりだねぇ」
野梨花は児戯の延長で言い返した。そこでくらっとした。
頭部の衝撃を思い出す。直撃ではないのだが、重いものが頭をかすっていたのか。
荷置を見ると、先ほどのコンビニのビニール袋を下げている。中身は石だった。
「石?」
「看板の重しだ」
荷置が答える。そんなことはどうでもいいな、と野梨花は思った。
あれで殴られかけたのか殺す気か、と文句を言いたくなったが——
——殺す気だったのだろう。
「おまえらみたいな女がおれを馬鹿にする。おれに何が足りないっていうんだ」
これはだめだ、と野梨花は気づく。この男は一線を越えてしまっている男だ。
「だったらおまえらに足りているものをおれが奪ってやる」
荷置が近付く気配を見せた。野梨花は立ち上がって逃げようとするが、動けなかった。頭の負傷のせいか、それとも恐怖のせいか。野梨花はスマートフォンを取り出した。助けを呼ばなければ。警察か?
スマートフォンを持った右手を蹴られた。指が折れたんじゃないかと思う。スマートフォンは路地裏に転がった。またケースに傷が付くと思ってしまった。ただでさえあのスマートフォンケースには目立った傷がある。
逢実錦自あいざね・きんじのスマートフォンケースと同じように。
ああ、と野梨花は思う。
こんな時でも、元彼の逢実を思い出してしまうのか。
いや、本当に彼氏だったんだろうか。
会えないこと感情が読めないこと金銭感覚がおかしいこと面倒くさがりなこと——
およそ彼氏にしたいタイプではない。
そんなのが四つもそろってしまえば——
「お別れする《予感》はあったんだよねぇ」
「何言ってるんだ馬鹿にしてるのか」
荷置のつま先が野梨花の腰にめり込んだ。んぐっ、と変な悲鳴を上げてしまった。スーツが汚れるなと痛みのせいで達観した感想が脳内をよぎる。
なんでこんな通り魔めいた目に遭わなければならないんだ、と野梨花は考える。《予感》よ働けとも思う。
通り魔——
そういえば逢実が何か言っていた。新宿のラブホテルで起きている通り魔的な殺人事件。何件か起きているはずだ。
これか、と野梨花は半ば諦めたように思った。場所はラブホテルじゃなくて場末の飲み屋の裏路地だ。けれども荷置は彼岸の狂気を持っているし、実際凶器も持っている。
——内臓が抜かれているんだって
——それは女の子といちゃいちゃしている時に言う話じゃないねぇ
逢実との会話が思い出される。シチュエーションまで思い出すつもりはなかった。
その通り魔は、内臓を奪うのだそうだ。
「大事なものを、奪うのね」
何の気なしに漏れた声だったが、荷置が大きく反応するのが見えた。野梨花を見る目はまるで飛び出しそうに大きくなっていた。
それから荷置は少し笑った。
「わかっているだけ、マシな女だな」
荷置の、石を持つ手が震えていた。
意志も奮わせているのだろう。
だが野梨花には《予感》が振るっていた。
この場面に邪魔が入るだろうという《予感》が。
「あれ、何してるの?」
空気を緩ませる声がした。
「え? 石なんか持っちゃって。駄目だよ女の子をいじめちゃ」
女がいた。
野梨花よりは年上で、しかし若作りをしているように見えた。それは野梨花の女としての予感である。なんかこういう顔の歌手がいたなと思った。
「この人通り魔です警察呼んでください」
野梨花は早口で声を絞り出した。
「通り魔なの?」
酔っぱらったような声を女は出した。事情が呑み込めないのか。野梨花は怯えといら立ちを同時に感じた。
「さちこさん」
男性の声がした。しかも聞いたことのある声だ。
この声の《予感》は、地面に転がったスマートフォンケースを見た時から野梨花にはあった。
いつものポーカーフェイスで、逢実錦自が現れた。
ああ、と野梨花は安堵した。
だが待てよ、と思った。この男、『さちこさん』とか言っていなかったか?
「え、野梨花?」
一瞬だけ、逢実は狼狽した表情を見せた。最悪だ、この男は自分が知らない女と酒飲んでいた、と野梨花は悟った。
だが何故か——
酷く禍々しい《予感》もした。
「錦自君その男通り魔で私殴られたの」
「早口だね」
冗談ともつかないような返事が返ってきた。
「錦自君が言ってたラブホの通り魔」
「ラブホの通り魔?」
既に逢実はポーカーフェイスになっていた。
「おいおまえら何を」
「ラブホの通り魔はおかしい」
荷置の言葉を逢実は遮る。真顔で考察している場合じゃない、殴殺されるんだぞ私はと野梨花は思った。

「だってラブホの通り魔の被害者は、全部男性だよ」

「え?」
野梨花は逢実の言っていることが理解できなかった。
「もういいこの女は殺——」
「そうなんだよね」
『さちこさん』が荷置に近寄った。そして何でもないことのように——
荷置の腹部に右手を突き立てた。
「……あ」
荷置は『さちこさん』を見たあと、そのまま全体重を彼女に預けた。荷置が持っていた石が地面に落ちて、鈍い音を立てた。その音が合図だったかのように、『さちこさん』が右手を荷置から引き抜くと、小豆色のぬめぬめとした塊を持っていた。
肝臓だ。
野梨花はそう思った瞬間吐いた。地面に転がったまま吐いたので顔が汚物で汚れてしまった。
荷置が崩れ落ちた。
「私、男の肝臓しか食べないから」
『さちこさん』は唇の両端をキューッと吊り上げて笑った。
禍々しい《予感》が当たった。
そう思った野梨花はもう一度吐いて——
ぱたりと顔を伏せた。

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