近藤誠医師 がん放置説②
トンデモ医療
トンデモ医療と呼ばれるものがあります。奇妙で耳慣れない名称ですが、とんでもない医療を略してトンデモ医療なのだろうと推測します。
トンデモ医療には2種類あると思います。ひとつは金儲けが目的のどこからどう見ても詐欺としか言いようのない医療。
もうひとつのトンデモ医療が近藤誠医師に代表されるジャンルです。近藤医師以外にどんな人がいて、どんな説を唱えているのかは今回は触れませんが、新型コロナワクチン反対説や子宮頸がん(HPV)ワクチンの反対論者もトンデモ医療に含まれるのではないかと思います。信念に基づいて力説し、結果的に患者の不利益を引き起こしてしまうタイプです。
ここで私が取り上げたいのは後者のひとつ。近藤誠医師の放置説です。私自身が近藤説を信じこんで、不正出血が続いていたにもかかわらず、一年余り病院にも行かずにがんを放置し、進行させてしまったからです。
信じるというのは自分の人生を賭けることです。不利益につながるとしても、文句は言わない。いのちを失うとしても後悔はしない。近藤さんを信じて放置を選択した時、その覚悟だけはありました。放置説にはそう思わせるだけの力強さがあったのです。
実際はカラ覚悟にすぎなかったと、今なら分かります。覚悟のような気持になっていただけのこと。
自分ひとりで病気のすべてをひきうける。病院にも医者にも頼らないという選択にはちょっとした悲壮感がただよいます。悲愴感ゆえの潔さもあります。カッコいい生き方に思えたのです。
当時の私は不正出血以外の自覚症状がなく、不調というほどの体調変化もありませんでした。病気の実感がなかったから、呑気にカッコつけをしていられたのです。
私はその後、近藤さんの放置説は間違いであると知り、標準治療こそが正しいとする説に同調して、治療に踏み切りました。手術と抗がん剤治療を受けたのです。自分でも驚きの180度の方向転換でした。
近藤さんを信じてがんを放置したことも、その後は考えを変えて、標準治療のほうを信じて治療を受けたことも、私自身の人生の選択です。私自身が日々を生きて自分の人生をつむぐうえで、両方とも、それ以外にすべのない必然の選択だったと思っています。
私の生き方、考え方が、一時は私を無治療のまま放置するという選択にみちびきました。
自立した自由な生き方をしたいと望み、自分で考えて選択することを何より尊重していましたから、がんを放置するのは自然であり当然でした。病気に縛られたくなかったのです。
病気は自分の一部。太っているとか痩せているとか、背が高いとか低いとかと同レベルのこと。がんという病気が自分の体にあるにすぎない。自分の体よりも仕事を優先したかったので、そう位置づけて、あえて病気を無視していました。
病気を治して、健康な日々を長引かせることを最善とするならば間違った選択でしたが、仕事最優先だった私にとって、放置は自分の生き方として必然の選択でした。
今でも私は時として、近藤さん擁護の立場にたってしまいます。理性では彼の間違いを知りつつも、感情的にはどうしても否定しきれない部分があるのです。
それだけ放置説には捨てがたいほどの力強い魅力があったのでした。そしてそれにもかかわらず、近藤さんのがん放置説は患者を間違った方向に誘導してしまうトンデモ医療のひとつなのです。