オツベルと象におけるデウス・エクス・マキナ
宮沢賢治「オツベルと象」は中学一年生の定番教材だ。白象がオツベルにこき使われ、「もう、さようなら、サンタマリア」と言うと、月が突然しゃべりだし、赤い着物の童子が登場し、山の象たちに助けを求める手紙を出すことができる。
もうだめだ、というところで、いきなりの超自然の力の登場である。
この場面について、演劇技法の「デウス・エクス・マキナ」と絡めて話をした。岩波文庫の泉鏡花『夜叉ケ池 天守物語』の解説において澁澤龍彦がこう書いている。
迷宮のアナロジーでいえば、大団円に近江之丞桃六と呼ばれる工人が突然あらわれて、獅子頭の目が傷つけられたために失明する二人の恋人同士を、その鑿(のみ)によって救ってやるところは、まさにダイダロスがデウス・エクス・マキーナのごとく闇から躍り出たという感じで、間然するところのない作術劇の冴えを示している。この桃六の出現によって、劇ぜんたいが一挙に高い批評性を獲得したといえるからだ。
この言に従えば、オツベルと象における、月や赤衣の童子もデウス・エクス・マキナということができ、ご都合主義ととらえられようが、白象が救われると同時に読者の心も救われるのである。因果や論理はもちろん物語に必要だろうが、そもそもの物語の目的が読み手の心の浄化にあるとすれば、今までの流れを断ち切ってでも大団円に持っていくという手法はアリなのだと思う。
漱石が『吾輩は猫である』を連載し急に終わらせたのも、鳥山明が『ドラゴンボール』をつづけたのも、結局は、読者が望んだ方向に物語が引っ張られるということの証明である。
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