自分から、うまれている
自分自身のことが、自分で一番よく分からない。
自分自身のことを、自分が一番よく知っている。
どちらも嘘で、どちらも本当。
自分が自分についてきた嘘や、思い、誰にも話していないエピソード。それは自分自身しか知らないし、分からない。自分すら忘れて思い出さないようになっていることもあるかもしれない。
誰かに話してシェアしていることすら、言葉にした瞬間に自分の脚色が入れば、結局のところ、自分しか知らないことになるとも思う。
自分の身体のなかに刻まれた、純粋なところ。
それは自分しか知らないし分からない。
よく分からないと思うことは、自分で自分を認めていないところ。他者からみた自分がうつし鏡だとしたら、他者から受けたことを理解できないのは自分が分からないからなのかもしれない。
だれかに怒りをぶつけられてよく分からないとき、自分の中のその芽に気づいていなかったり。誰から愛されても自信が持てないとき、自分の中の魅力に気づいていなかったり。
自分の内側にあるもの
自分の外側で起きているもの
それが合わさり一致してきたら、
自分のことが「分かる」んだろうか。
ただ、内側にあるものが、
外側をつくっている。
昔、こんな妄想をしていた
この世界になにもなくて真っ白で
自分しかいなかったら
自分はいるっていうんだろうかと
自分しか自分がいると認識できない世界では
自分がいるっていえるのだろうか
誰かに触れられたり
認識されたりもしない
「いる」っていわれたり
認められたりするわけでもない
そのころの私の答えは
「いない」だった
だから、かみさまは、
自然をつくって、植物をつくって、
動物たちをつくって、人間をつくったんじゃないかって
かみさますら、自分ひとりでは寂しくて
自分がわからなくなったから、
自分以外の何かをつくったんじゃないかなって
でも今は
「いる」んじゃないかって思っている
そもそも、
上に書いた「他のものをつくりたい」という願望も
「ない」からつくったんじゃなくて
「あると信じたいから」つくったんじゃないかって
「ない」とただ信じていたら
閉じて閉じて、無になるだけで
「ない」と思ったけど「ある」と思いたいから、
自分の内側に想像する世界を外につくったんじゃないか
内側に「あった」から、創造されたんじゃないかって
…この文章を書きながら思いました。笑
そうだなぁ、
自分が「ある」と思いたいから、「ある」から、それを確認したくて、外の世界をつくっている。
だから、
この世は、自分が「信じたい」と思う世界を写し出す鏡なのかもしれない。
だから、
世界は「優しい」と思えば優しさが写し出されて
世界は「辛い」と思えば辛さが写し出される
そういう意味で、見たいものを見させてくれる世界は結局「優しい」のかもしれない
自分が怖がっているだけなのだ
途中、どこにいくか分からない文章だったけど、
結論は
「この輝きは僕のじゃなくて、この世の光うつしてるだけで」
「夢を外へ連れ出して 妄想この手で創れば この世が光 映すだけ」
なんだなぁ。
源さんすご。
そして「ある」って思う自分はエゴなのかとかどうなのかとか考え始めると、やばい、終わらないと思ったのだが…
「ある」って思う自分は「エゴ」なのかな
それを世界と切り離したらエゴだけど
世界と同じでただ私として「ある」だけ
と考えたら、エゴではないのかなあ。
うん。
終わろう。
久しぶりの一筆書。テキスト。
ではでは、また。
今日の二曲
「さらしもの 」「夢の外へ」 星野源
nixhour