ポケベル・ケータイ・スマホ
携帯端末の放つ青白いひかりが、何度私を救っただろう。
深夜に、早朝に、昼間に。悲しみに、退屈に、さみしさに。
他人とコミュニケーションを取れることが、どれほどありがたかったか。
些細なことかもしれない。けれど手のひらから私を照らすひかりはいつも、私とこの世を結びつける、「つながり」を表すひかりだった。
◆◆◆
80年生まれの私の世代は、ちょうど携帯電話の普及していくさまを肌で感じて育った。
ポケベル、PHS、ケータイという順番で、私も友人たちも、次第に自分の端末を持つようになった。
ポケベルなんて今考えるとめんどくさいだけのものに思えるのに、高校生の私はうれしくて、友人に安いと聞く店へと連れて行ってもらい購入した。
自分宛にメッセージが届く。
文字数だって限られているというのに、とても特別なアイテムを手に入れたかのような気持ちで、ドキドキしながら通学かばんの内ポケットに忍ばせていた。
学校ではポケベルの持ち込みは禁止されていた。そんな小さな校則破りがやけに甘く感じられ、なおのことそのポケベルは特別なものになっていった。
高3の12月にケータイを手に入れた。キャリアはJ-PHONEだった。
自分専用の電話番号を持った私は、それまで家の固定電話でしていた日々の長電話を、そのケータイでするようになった。
今のようなかけ放題の定額プランなどない頃だ。電話代はえらいことになった。
iPhoneとセルラーモデルのiPadを利用している今の月の携帯料金とどっこいか、それ以上だろう。なお、iPad Proの割賦も含めての金額である。
大学生になると、ケータイの存在はいっそう大きくなる。
特に恋愛をすると、ちょっとしたメールに一喜一憂したり、短いメールが送られてくれば、その真の(ように見える)意味を深読みしたり。
当時流行った歌の詞にもあるように、留守電のメッセージを消せずに、何度も聞き直したりしていた。
◆◆◆
ケータイはどんどん日常に溶け込んでいく。
高校では学校に持って行くことを不可とされるほど、問題視され異質のものだったケータイ類は、いつのまにか必需品になった。
YoutubeやTwitterが広まり、Instagramが出現する頃には、スマートフォンがすっかり一般化してケータイは「ガラケー」と呼ばれるようになった。
そうしているうちに、電話の向こうの一人だけではなく、インターネット経由でもっと多くの人たちと繋がるため、スマホを持つようになった。
ゲーム、SNS、電書、音楽。あらゆるものがネット経由で手元に来てくれる。
娯楽も人間関係も、手のひらの上に集約される。
携帯端末がどんどん馴染んでいき、自分自身とその端末との距離が次第に「近く」なってくる感覚はたまらなく楽しかった。
端末との距離感だけではなく、使い古された言い回しだが、「どこかの」「誰か」と「繋がっている」という意外にも確かな感触は、それまで経験してきたどんなものとも違った関係性を連れてきた。
特にTwitterをスマホで触りだしてからが顕著だった。
他人の日常が、面白い映画のオススメコメントが、深夜のへこみツイートへの返信が、どれだけ私を救ってくれただろうか。
9年間ゆっくりと時間を掛けてできあがったTwitterの鍵付きタイムラインは、テキストでもボイスチャットでもオフラインでも違和感なく話せる友人たちを、私に与えてくれた。
TwitterはPCでもできるが、スマホで使うのが最もしっくりくる。
手のひらの中で、さまざまな考え方のフォロワーさんがつぶやいているというのは、単純に面白くもあるが、なにより安心感を与えてくれた。
それはもしかして、私が「居場所」を手に入れたということなのだろうか。
「つながり」と「居場所」。
どちらが先かの因果関係はわからないが、このふたつは強く結びついている。
今ちょうど、「居場所」についての本を読んでいるので、そのように考えてしまうのかもしれない。
だが確信がある。
救われた当人だからこそ、確信を持てるのだ。
オンラインでもオフラインでも、結局は人と人の間でのやりとりだ。
オフラインのそこにつまづいて、オンラインに入り浸ることだってしばしばある。というかよくある。
でも、逃げ場があることは、強みだ。
自分で自分をそこへ逃がす。それも立派な解決法のひとつだと思う。
現在、私は(メインはPCからだが)iPhoneやiPadも使って日夜ひとつのZoomに接続し、これまでとはまた別の人間関係を築いている。
こちらの記事にあるオンラインサロン内のZoomに入り浸っている。
まさか「おはようからおやすみまで暮らしを見つめるライオン」状態になるとは思ってもみなかった。この試みはありがたい。
勉強したり、意見交換をしたり、遊んだり。
自分がいったい何歳なのかわからなくなる瞬間が楽しくてしかたがないのだ。
◆◆◆
「*2*2」とダイヤルボタンをぽちぽち押して、ポケベルで連絡を取っていたころには考えられない環境に、今の自分はいる。
思えば遠くに来たものだ。こんなおもしろい環境になるとは、まったく予想などできなかった。
ポケベル、ケータイ、スマホ。
これらのツールを経てたどり着いた、今自分が立つ場所は、あたらしい何番目かの「居場所」であり、日々それに助けられて、私は生きている。
毎日が楽しいばかりではないけれど、それでも私は、日常を生きることにした。
そしてそれは、けして間違いではないはずだ。