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闇落ち勇者に溺愛され、聖女は未来の夢を見る

「くそっ、もう少しだってぇのに!」
 肩で息をしながら、重そうに剣を引きずるエリック。

 その傍らには、同じように肩で息をする美しい銀の髪をした聖女、リリス。
「まだっ、諦めてはダメですっ。勇者様、次で決めましょう! 散っていった仲間たちのためにも、なんとしてでも、今ここで討たねばなりませんっ」
 強い瞳で、そう言ってくる。

 二人に残された力はもう僅かだ。
 次で仕留められなければ、それは二人の死を意味するだろうことは百も承知。

「なぁ、リリス」
 エリックが真面目な顔で、リリスを見つめた。
「なんですか、勇者様?」
「この戦いが終わったら、俺と、結婚してほしい」
「ええっ?」

 それは突然の告白。
 今までパーティーを組んで、ずっと一緒に戦ってきた。だが、こんな風に好意を言葉ではっきりと示されたことは一度もない。

「君は聖女だ。汚すようなことは出来なかった。でも俺は、ずっと……」
「そんな……、勇者様」
「リリス。愛してる」
 エリックがリリスを抱き締めた。そのまま見つめ合い、キスを交わす。互いの顔を見つめ、笑みを浮かべる二人。

「さて、とっととあいつを倒すことにしようか!」
 リリスに想いを伝えたことで、体に力が漲る。目の前には巨大な黒い龍。魔王マリガルスのなれの果て。最終形態だ。あの黒龍さえ倒せれば、すべてが終わる。
 エリックは手にした剣を今一度グッと握りしめる。
「リリス、援護を!」
「はい、勇者様!」

 ダッと走り出す背後から、聖女であるリリスの奏でる呪文がかすかに聞こえる。エリックの体が、薄い皮膜のようなもので覆われる。黒龍は片翼をもがれた状態でこちらを睨んでいた。この機を逃せば、次はもう、ない。

「真紅の閃光斬!」
 エリックが大きく剣を振りかぶり、薙ぎ払う。光の閃光が黒龍目掛け、飛ぶ。が、寸でのところで躱される。と、雄叫びをあげた黒龍の口から火焔が放たれる。
「その手には乗らん!」
 ふわりと攻撃を交わし、もう一度剣を振るう。
「これで最後だ、魔王マリガルス! 天空烈断!」
 渾身の力で、剣を黒龍目掛け叩き落とす。切先は魔王マリガルスの首を切り裂き、切り落とした。ドーン、という音と共に切り落とされた首が地面に落ちる。

「……やった……やったぞ!」
 膝をつき、天を仰ぐ。
 暗雲が晴れ渡ってゆく。
 世界に、平和が戻ったのだ。
「ふふ、ははは、やった! ついにやったんだ! リリス!」
 パッと振り返る。
 と、背後にあったのは、木々の残骸。

「リリス……?」
 驚愕する。
 そして思い出したのだ。
 黒龍が最後に放った火焔!!

「リリス!!」
 エリックはもつれそうになる足を引きずりながら、リリスがいたであろう場所を目指し駆け出す。めちゃくちゃになった大地の片隅に、彼女は、いた。
「ああ、なんてことだ!」
 急いで駆け寄る。
「リリス、しっかりしろ!」
 抱き上げるが、既に虫の息。
「ダメだ、ダメだ! 死なないでくれ、こんな……こんなのあんまりだ! リリス!」

 やっと戦いが終わったのに。
 やっと、これから平和な世界が来るというのに。

「勇……者……さま」
「ああ、リリス、しっかりしてくれ! 魔王マリガルスは討ち取ったんだ! 皆の仇は、もういなくなったんだ!」
「…そう……よかっ……た」
「これからは二人で、幸せな毎日を送るんだ。わかるだろ? 今までの苦しかった日々を忘れて、二人で幸せになるんだっ」
「勇者……さま、あり……が、と」
 カクン、とリリスの頭から力が抜ける。閉じられた瞳。もう、二度と開くことのない、その瞳。

「……嘘だ。嘘だ嘘だ!」
 エリックがリリスの体を揺さぶる。
 まだ温もりが残っている。さっき、告白をしたばかりだ。ずっと好きだった。やっとここまで……

「うああああああ!!」

 光射す大地に、勇者の雄叫びだけが響き渡った。

◇◇◇

 最後の記憶は、紅蓮の炎と、轟音。

 全身に痛みが走り、次の瞬間、静寂に身を委ねる。どんどん力が抜けて、頭の芯がピリピリする。遠くから声がする気がして、目を開けると、そこには勇者エリックの顔。

 ああ、私は死ぬんだ。

 そう思った次の瞬間、世界は闇に包まれた。
 それからどれだけの月日が流れたのかは知らない。
 意識が……そうだ、意識がはっきりしていく感覚。
 でも、どうして?
 死んだはずなのに、なんで意識が戻るような感覚があるんだろう、と不思議に思う。

 もしかして、生まれ変わろうとしているのだろうか?
 だけど、覚えている。
 自分が何者であったか。
 どう生きて、どう死んでいったか……。
 それは、何故なんだろう……?

「リリス……リリス、聞こえるかっ?」

 自分を読んでいる誰かの声に、リリスは目を、開けた。
「リリス!」
 視界に飛び込んできたのは、黒髪に赤い瞳。これは……
「魔王、マリガルス!」
 リリスはバッと半身を起こし、敵と対峙する姿勢を取る。なんということ! まだ、彼は死んでいなかったのか!

「リリス、落ち着いて。俺だよ。エリックだよ」
 黒髪の悪魔と呼ばれた魔王は、おかしなことを口走る。
「な……なにをっ。我が勇者エリックを名乗るだなど言語道断です!」
 リリスが怒りに身を震わせながら抗議する。だが、黒い悪魔は困ったような顔でリリスを見つめ、続けた。

「リリス、驚かないで聞いてくれ。俺はエリックだ。魔王マリガルスの心臓を喰った。そして闇の力を手に入れ、君を……蘇らせようと……したんだ」
「……え?」
 大きく深呼吸をし、ゆっくりと目の前の魔物を見つめる。黒髪。赤い瞳。それは紛れもなく魔族の証。しかし、その姿、形は……

「勇者……さま?」
 リリスの知るエリックそのものなのである。金色の髪も、青く透き通った瞳もどこにもない。けれど、確かにエリックのようだ。
「まさか……そんなっ」

 聞いたことがある。
 魔王の心臓を食らうことで、その者の力を手にすることができるという逸話を。

「……本当に?」
「本当だ。君なしの人生など、俺には考えられなかった。だから」
 苦しそうに眉をひそめる。
「こんな姿になってしまった。君はさぞ幻滅しただろう。それに……」
 はぁ、と大きく息を吐き出す。
「君は……『アンデッド』だ」
「……はぃ?」
 リリスはエリックの言葉を頭で反芻する。アンデッド、と言われた気がするのだが?
 改めて、自らの手を見る。

「うっ……嘘でしょぉぉぉ!?」

 その手は、若干腐っているのだった。

◇◇◇

 リリスは改めて自分の手を見つめる。所々おかしな色をしている、手。
 生きている人間のものとは思えない、一部肉が削がれた腕を見遣る。

「腐敗……してる?」
 まさか、と思う。
 彼がエリックであること。それを納得するだけだって相当な努力と想像力を要することだ。それなのに、自分がアンデッドになっているなど、どうして受け入れることが出来ると?

「すまない。生命蘇生の魔法が上手く発動しなかったんだ。手は尽くしたのだが……」
「いや、手は尽くしたって……」
 そもそも「生命蘇生魔法」など、この世にはない。この世、というのはつまり、「人間の世界には」という意味だが。
 ここまで考え、ふと、思考が停止する。

『人間の世界には、ない』

 そうだ。
 死んだらそこで終わり。
 それが世の理だ。
 当たり前だろう。死んだ人間はもう二度と生き返ったりはしないもの。死んだ人間を引き戻そうなどと言うのは、神への冒涜だ。
 当然、リリスとてその認識である。

 しかもリリスは生前、聖女として生きてきたのである。闇落ちした者、彷徨える死者たちを地に還すのが仕事だったと言っても過言ではない。
 それが……
「私が……アンデッドに……?」
 ぞわりと背筋が寒くなる。
 死体なので体温はないけれど。
 こんなこと、許せるはずもなく……。

「なんてことしてくれたんですかっ!」
 思わず大声で怒鳴ってしまう。怒鳴った勢いで、目玉が飛び出そうになるのを思わず押さえた。気持ち悪い感触だ。

「勇者様ともあろうお方が、なにをしているのですっ! 魔王を倒したのであれば、それでよかったのです! あなた様は勇者ですよ? 皆に選ばれし、最高の勇者様ですよ? 魔王の心臓を喰らうことも、私を蘇らせることも、何もしなくて良かったのです! あなたは、幸せに生きられたはずなのにっ」
「どうして!」
 リリスの言葉を遮り、エリック。

「どうして?! どうして君のいない世界で『幸せ』が手に入ると? 俺には無理だ! そんなの、そんなの無理だ!」
「ですがっ」
「いいかリリス! 俺は人の心を捨てたっ。君を蘇らせるためにこの身を魔物に変え、この世界に君臨した! 今は俺が、魔物たちを統べる王だ!」
「……なん……ですって?」

 とんでもない告白を受け、軽い眩暈に襲われる。
 あの時、力を合わせて魔王を倒すことを誓い、それを成し遂げたというのに、まさかその地位に勇者自らが就いてしまうなど、なんたる愚行……。

「だが安心しろ。俺は人間たちと争うつもりもないし、魔物たちを統べる身となった今、平和に暮らせる世を実現させるための帝国を築いた。誰にも迷惑をかけることなく、うまくやっているんだ」
 帝国まで築いて!?
「そんな……」
「すべてはリリス、君と幸せに暮らしたい。ただそれだけのために……」
 黒髪のエリックはそう言ってリリスを見つめる。
 魔王とアンデッド。ある意味、お似合いのカップルかもしれない。

 ……じゃない!!

「私はこのようなこと、望んではおりません! 人は死ぬのです! 限りある命だからこそ、尊いものなのです! 私があの日、戦いで命を落とすことになったのは運命。仕方のないことだった。それなのに、どうしてこんなっ」
 腐っている、手。見えている部分だけではないだろう。きっと全身くまなく、腐っているのだ。自分ではわからないが、きっと臭いに違いない。死臭漂う自分の成れの果てを客観的に想像し、絶望を知る。試しに光の魔法を試みるが、まったくもってなんの反応もない。当然か。アンデッドだもの。

「そんなに落ち込むことはないぞ! いつか必ず俺がお前を蘇らせてやる! そのために今は魔力を磨いて……」
「馬鹿~~~!」
 リリスはそう叫び寝台から飛び降りると、そのまま駆け出した。
「ちょ、リリス!」
 エリックが追う。

 アンデッドというものは、実際なってみて初めて気付くことが多い。まず、腐りかけの体というのは走ることに適していない。走っている途中で皮膚はホロホロと崩れるし、走る衝撃に耐えられず足はもつれ、骨が簡単に砕ける。つまり、大した距離を進んでいないのに転ぶ。転んだ拍子に、腕も折れ、体がおかしな風に折れ曲がった。操り人形の、糸なしバージョンがそれに近い。

「……なによ、なによこれっ」
 床の上で無様にひっくり返りながら、じたばたと手を動かす。起き上がろうと試みるも、うまく体を扱えない。
「そう焦るな、リリス」
 エリックが手をかざし、復活の呪文を唱える。黒い靄がリリスの体を包み、やがて形が戻り始めた。それでも腐っていることには違いないが。

「無理に走ったりしたら体に障る。今は大人しく俺の言うことを聞いてくれないか?」
「……勇者様」
 複雑な気持ちでエリックを見上げる。そこにいるのは、リリスの知る勇者エリックではない。髪を黒く染め、瞳を赤く塗りつぶした魔王。たかが女一人のために、魂を血に染めた愚かな人間だ。

「リリス、君は聖女だった。だから俺の愚行にも、自分の現状にもきっと絶望してるだろうね。でも、これだけはわかってほしい。俺は世界なんかどうでもよかった。君さえ……君さえ傍にいてくれればそれでよかった。君が悲しむことは極力したくない。ただ一緒にいたい。それだけなんだ」
 眉根を寄せ、辛そうに笑う。
 生前の自分が聞いたら、間違いなく涙を流していただろう。しかし……。

「ならば、共に滅びましょう!」
 リリスは高く拳を突き出し、そう、宣言したのである。

「え? は?」
 エリックが首を捻る。
「聖女を探すのです! そして勇者様と私、二人を葬り去ってもらえばいいのです!」
 嬉々としてそう叫ぶリリスに、エリックが溜息をつく。
「それは無理だ、リリス」
「どうしてですっ?」
「さっきも言ったが、俺は帝国を築いてしまった。名ばかりではない、俺は闇の国の支配者なんだよ」

 その言葉を聞き改めて辺りを見渡せば、城と思わしき広く巨大な建造物の中。祭壇のような場所に寝かされていた自分。
 周りには角や翼を生やした人型の魔物が控えている。あの戦いから一体どれだけの月日が流れているというのか。あの時、魔王の城は崩れて落ちているはずだ。

「――三百年だ、リリス」
「え?」
 まるで思考を読んだかのように、エリックが言った。

「俺はね、君を取り戻すために、三百年かけてここまで上り詰めたんだ。魂の召喚から復活の魔法までを使いこなすのは容易じゃなかった。やっと……やっと君をこの手に」
 そう言うと両手を伸ばし、リリスの背に回す。少しでも力を入れれば崩れてしまう。(物理)エリックは優しく、そっとリリスを包み込んだ。

「俺は魔王マリガルスを喰った。黒龍の心臓を。もう人間には戻れないし、こうして君を手に入れた今、戻る気もない。今までの分を取り戻す。リリス、結婚してほしい」

 それはリリスにとって、二度目のプロポーズなのだった。

 魔王エリックの築いた城は、質素で、しかしながら人間であった頃の名残か、使い勝手の良い美しいものであった。城に住まうのは当然ながら魔王エリックの配下となる魔物たちである。人型をした者が大半だが、時折、獣のような者もいる。エリックの話では、魔物は獣の姿にも人型にもなれるらしいが……。
 そもそも魔王マリガルスも、人型を取っていたが元は黒龍だ。

「さ、リリス様、こちらを」
 頭に角のあるメイドが笑顔でドレスを見せてくる。

 ここはリリスに与えられた部屋。明るく、陽の射す美しい部屋だが、今は厚いカーテンがその大きな窓を覆っているため、暗い。この体には日光があまりよくないとのことだ。
 ……要するに、腐敗が進んでしまうというのである。

「着替え……ですか?」
「ええ、なるべく体を清潔に保った方がよいとのことです」
 腐るからだ。
 難儀である。
 しかも崩れやすい体なので、着替えるのも一苦労だった。

「こんな体で生きても意味がないじゃない」
 思わずポツリと本音が漏れる。
「あら、そんなことありませんわっ。完全なるアンデッドになることが出来れば、もっと生活は楽になります」
 完全なアンデッド……。ちょっと意味が分からない。

「それに」
 メイドが続ける。
「エリック様はリリス様をアンデッドとして完成させたいわけではなく、我々同様、魔族として復活させることを目標に掲げていらっしゃいますもの」
「……魔族として」
 そうじゃない。そうじゃないのだ。
「私は人として死にたかったの。それなのにっ」

「リリス様、命には限りがあり、一度失くしてしまえばそれでおしまいです。もし、目の前で大切な人を亡くしたとして、けれどその命を救い上げることが可能なのだとしたら、リリス様はどうなさいます?」

 聞かれ、改めて考えてみる。
 もしあの時、自分だけが生き残り、エリックが死んでいたら……。
 目の前の魔王の心臓を喰らうことで、エリックを取り戻せると知ったら、そうしたら自分は、どう動いたのだろう、と。

「私……わからないわ」
 その時どうするかはわからない。
 けれど、今やっと、エリックの「気持ち」に、少しだけ近付けた気がしていた。きっと悩んだに違いない。深い絶望と悲しみの中、悩んで、苦しんで……。

「それに、エリック様はリリス様のことだけを救ったのではありません」
「え?」
「先の戦いで傷付いた魔物たちを配下に加えたと同時に、敵だった我々の救護にも、その後の復興にも力を注いでくださいました」
 自分で薙ぎ倒しておきながら復興というのもおかしな話であるが。

「リリス様は魔物を怖いと思っておいででしたか?」
「え?」
「醜悪で、非道で恐ろしいものだ、と?」
 そんな風に聞かれると、なんだか困る。
 確かに人間だった頃、魔物は悪だと認識していた。昔からそういう風に言われていたから。だがアンデッドになり、自分の目で見た限りでは、魔物は特に邪悪な存在でも、気が荒く手が付けられない存在でもない。城で見たすべての魔物が人間と同じように普通に生活している。殴り合いや罵り合いなどしていないし、城に死体が転がっていることもない。それはつまり……
「魔物も人間とあまり変わらない……ってこと?」
「ええ、その通りです。勿論、種によっては気性の荒い者たちもおりますが、それは人とて同じことでしょう? 見た目や力の差。それを恐れた人間たちが、勝手に魔物を悪だと決めて、戦いを仕掛けてきたのです」
「……そんな」

 かつて聖女として戦いの最前線にいたリリスにとって、それは認めたくないことだった。しかし、確かに言われればその通りなのだ。国王直下に出された命は「魔物の根絶」だ。しかし、そこに「理由」は存在していたのだろうか? きちんと納得できるような確固たる何かはあったのだろうか?
 今更そんなことを疑問に思うだなんて、遅すぎる。

「私はリリス様を責めているのではありません。魔物として、今、ここに存在していることに、おかしな嫌悪感を抱かないでほしいと思っているだけですわ」
 そう言ってニッコリ笑う。
「リリス様がこの世を去り、エリック様がどれだけ嘆き、悲しみ、苦しんだか。その結果マリガルスの心臓を喰らい、自ら魔物となったこと。リリス様の魂を捉え、かき集めて復活させたこと。そのすべてが、嘘偽りなくリリス様への愛からきているのだと、そのことだけは忘れないでくださいまし」

 その言葉に、困惑する。
 勇者とは、なんだったのか。
 聖女とは、なんだったのか。
 王命を受け、遥か北の大地まで向かい、命を投げ出す行為は何だったのか。

 大人しく着せ替えさせられて行く自分の姿を鏡で見る。所々腐った体。抜け落ちてバラバラになった長い髪。見るもおぞましいその容姿。これが聖女だ。元、ではあるけれど。今や自分を浄化することすらできない、ただのアンデッドだ。心が同じであったとしても、もう、あのころとは別人なのだ。
「……私はやはり、死ぬべきだったのよ」
 ぽつり、口から漏れ出た言葉を拾い上げたのは、魔王エリックだった。

「聞き捨てならないな、リリス」
「エリック様!」
 メイドが慌てて頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありませんっ」
「いや、構わないよ。俺が待ちきれなくて迎えに来ちゃっただけだから。……それより」
 エリックが腰掛けているリリスの後ろに立ち、目の前の鏡越しにリリスを見つめた。

「リリスはどうしても俺のことを非難したいみたいだね」
 悲しそうな顔で鏡の中のリリスを見つめる。
「そ、それはっ」
 非難したいわけではないのだ。でも、結果的にはそうなってしまうのかもしれない、と、リリスは眉を寄せる。眉は片方しかないけれど。

「俺はね、リリス。こうして闇に身を投じた今でも、君に恥ずかしいような真似は何もしてないんだ。まぁ、リリスの意に反して蘇らせちゃったってことは謝るよ。でも、信じてほしい」
 跪き、そっとリリスの手を取る。
「俺は、リリスを愛してるんだ」
 まっすぐ見つめられ、リリスは顔が火照るのを感じた。実際はアンデッドなので青白いのだが。

「君の体が朽ちないうちに、その魂の定着を成し遂げたい。もう少し待っててくれ。必ず君を……君に、命を」
 きゅ、とリリスを抱き締め、エリックはリリスのこめかみにキスをした。パラパラと数本の毛が抜ける。
「私を魔物にする、ということですよね」
 リリスがエリックの腕の中で、問う。
「……そういうことになる」
 それしか、リリスを取り戻す方法がないのだから、仕方がなかった。

「……私は、どんな魔物になるのでしょうね」
 それは、本当に自然に出てきた言葉である。
 どんな形、どんな属性の魔物になるのだろう。
 単純な好奇心。

「リリス、それって……」
 エリックが目を丸くしながらリリスを見つめた。
 その顔は、あの頃と同じだ。共に、正義の名のもとに歩んできた、勇者であった頃の彼と。

 一体どんな思いで生きてきたのだろう。三百年という時間は、人として生きた二十数年と比べても、途方もなく長い時間だったはず。その間、ずっと、エリックはたった独りで力を尽くし……思い続けていてくれたのだ。

「私、エリック様とだったら……生きていけます……よね?」
 アンデッドは生きていないけど。
 もし、彼が望むのなら。
 そして自分が、今まで見てきた世界以外のものを見る勇気を持つのなら。
 案外、魔物であることは問題にならないのかもしれない、とリリスは思いはじめたのである。

「もちろんだ! 俺は絶対にリリスを幸せにする! この命に代えても!」
 頬を高揚させ、赤く光る眼をキラキラと潤ませ、エリックが力任せにリリスの手を握る。左の親指がポロリと落ち、メイドが慌てて拾った。
「命に代えても、は困ります。私は……エリック様と一緒だから、生きたいと思っているのですから」
 ふふ、と笑みを浮かべる。
「ああ、リリス! どんな姿にだって、望むまま叶えるさ!」
 エリックは喜びのあまり、リリスの体を力一杯抱き締める。バリバリと音を立て、細い肋骨が折れた。エリックが慌てて手をかざし、復活の呪文を唱え修復する。

「生とは何か、死とは何か。私はずっと、そんなことを考えながら生きてきました。聖女という使命を果たすため、諦めてきたことも沢山あります。ですが……」
 ふい、とエリックを見つめる。
「これからはもう少し、欲張りに生きてみようと思います。……あなたの、隣で」
 エリックの赤い瞳がリリスを映し出す。
「一刻も早く、君の体を作り上げよう。そして結婚しよう、リリス」

 三度目のプロポーズである。

 エリックはリリスの頬にそっと手を伸ばし、崩さないよう細心の注意を払いながら触れると、口付けを交わした。
 生臭い、腐敗臭漂うキスだった。
 

 魔物たちの住む国。
 二人の物語は、これから始まるのだ――。

おしまい

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