【読書記録】旧約聖書:創世記第4章 カインとアベル、カインの系譜

原文:創世記4 (churchofjesuschrist.org)

■カインの殺人
人とエバはカインとアベルという兄弟を産んだ。
アベルは羊を飼う者、カインは土を耕す者となりそれぞれ神に収穫物を備えたが、神はアベルの供え物を顧みてカインの供え物は顧みなかった。
憤ったカインに神は罪について説いたが、カインはアベルをだまし討ちして殺してしまった。
悔い改める様子のないカインに、神はカインを呪い、カインは生涯の放浪者となった。
カインは自分が他人から殺される恐れを抱き、神に嘆願したところ、神はカインを殺した者には7倍の復讐を受けると約束し、しるしを与えた。

■カインのその後
カインは神のもとを去りノドの地に住み妻を娶った。その後息子の名前であるエノクという町を立てた。

カインの系譜は以下の通り。

※文章だと見づらいのでカインの系図をスプレッドシートにまとめました。

レメクは妻たちに「わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。」
「カインのための復讐が7倍ならば、レメクのための復讐は77倍。」と告げた。

アダムとエバはまたセツを産み、セツもエノスという子を設けた。
このとき、人々は主の名を呼び始めた。


【感想・疑問】

■気になったこと
・カインの妻について
・神がカインの供え物を顧みなかった理由
・ノドの地
・レメクの発言
・セツが生まれたことと、人々が主の名を呼び始めた関連性
・7という数字


このカインとアベルについて、有名な話ですし、様々な教会で説教されているだけでなく、校長先生のお話にもあったり、ドラマや映画にも主題として取り上げられたりしているようです。様々な見解があるのですが、いかんせんキリスト教の立ち位置からの解釈がほぼです。日本の宗教分布でいえば当然かとは思いますが。

①カインの妻について
調べるとアワンという女性が出てきますが、これはヨベル書、つまり旧約聖書の正典にならなかった外典、偽典と呼ばれる文書から来ているそうです。
また、このアワンはカインの妹でもあるそうで。つまり、アダムとエバの娘ということになります。
たしかにその後の章で、アダムとエバはカイン、アベル、セツのほかにも男の子と女の子を産んでいる描写があります。
アブラハムの妻サライも(あとの章で出てきます)兄妹の関係らしいですし、この時代は近親婚が当たり前だったのでしょうね。
が、外典や偽典の内容を正典のように語っていいものなのかどうかは疑問ですね。

この4章を読んだときに、「アダムとエバから生まれたカインしかこの世界に存在しないはずなのに、なぜ他人がいる?」とは誰もが思ったはずなので、その疑問に無理やり答えようとしたのかもしれません(ヨベル書はまだ読んでいないので何とも言えませんが)。
ただし、カインの、他人から殺されることに対する恐怖の嘆願から見ても、なぜかはよくわからないけれど、既にこの世には人が増えていて、集合体を形成していると考えた方がしっくりきます。


②神がカインの供え物を顧みなかった理由
この、一見理不尽とも思える神からの仕打ちにはどんな意味があったのでしょう。
わたしがはじめに抱いた感想としては、
・神が兄弟間の対立を煽っている。
・風土の関係から、農耕よりも牧畜のほうが富に直結していたのではないか。
以上の2点でした。これも本で調べたりすると、わたしの感想とは逆方向の解釈が連なっていたので租借に時間がかかりました。

前章でもお世話になった『旧約聖書を学ぶ人のために』によると、まずもってカイン物語の舞台は読者の日常世界を前提としています。つまり、すでに世界に人がたくさんいて、人間社会が形成されている状況ということです。

-農民と牧羊者とは、どちらが有利な職業であろうか。その答えは明白に農業である。

-社会的には農民が強者で、牧羊者は弱者である。 農民と牧羊者のこの境遇の違いを知っている旧約時代の読者は、長男カインが農民となり、アベルが牧羊者になったことを自然の成り行きとして理解できる。

『旧約聖書を学ぶ人のために』 並木 浩一 編・荒井 章三 編(P.183~184)
旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)

遊牧民の不安定さと、定住している農耕民の安定した生活を比較し農耕民が有利であるとしたうえで、カインとアベルの捧げものに差異がないと述べています。

ということは、神は捧げもので顧みるかどうかを決めているのではなく、カインとアベルという人間を見て、そのようにしたということです。

ここで神が「捧げ物に目を留める」とは、捧げた者の生活が恵まれたことを意味している。 カインが当然と思うことがここでは覆される。 強者であるカインはアベルよりも生活が恵まれて然るべきであると思っていたが、カインの生活がうまくいかず、逆にアベルが恵まれたのである。

『旧約聖書を学ぶ人のために』 並木 浩一 編・荒井 章三 編(P.184)
旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)

詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、まとめると、神はカインの傲慢を見咎めて、アベルを顧みた、ということなのだと感じました。
捧げものをした時点で、すでにカインよりもアベルのほうが幸福であった。神はカインから「なぜ自分は幸福ではないのか」と訊ねられるのを待っていた。
「どうして顔を伏せるのか?」と、そのあとに続く罪のお話も、カインには響いておらず、神の呼びかけに応じるということをしなかったのです。それをしないばかりか、弟に嫉妬して挙句殺してしまった。カインの感情は嫉妬だけでなく、神への怒りもあったのです。

神、ひいきしすぎ!そりゃカインも怒るよと思っていたわたしはここで意気消沈しました。
カインに敬虔さが足りていないことが、文中ずっと示唆されていたのにも関わらず、そのことに全く気付かなかったからです。
つまり、カインはアダムとエバと同じ轍を踏んでいるのですよね。
自分の怒りを、神に訴えるのではなく邪魔者を消そうとすることで解決しようとする、というのは、エバが神の警告を無視して善悪を知る木の実を食べたことと状況が酷似しています。そしてさらに、「わたしは弟の番人か何かですか?知りません」と、懺悔をするどころか神に反抗するような態度を見せます。この親にしてこの子ありか。

神の「正しい事ことをしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」という台詞、
「まだ」何もしていないカインにお説教のように語り掛けているように見えますが、実際には神はいろいろ見たうえでこう言っていると考えると、カインの不敬さが見えてきます。(でも、それについては実際に何をしたか語られていないので、何とも言えませんけどね。)

ただ、この4章を読むことでカインの肩を持つということもやはり、神を信じずに勝手に判断を下していることになるんですよね。
そして懺悔室の存在の意義が、なんとなくわかってきますね。

個人的に、創世記の3章と4章は敬虔さを計る優秀なトラップとして役立つ気がしています。


③ノドの地

ノデの地は実際には存在しません。ヘブル語の字義どおりの意味は「彷徨する者」「放浪者」「逃亡者」「流浪」という意味です。カインはどこかに落ち着き、居住することを願うのですが、犯した罪のゆえに土地が呪われ、耕しても実を結ばないために定住することができず、結果として放浪せざるを得なくなります。身の安住を見出したいと願いつつ、自分の居場所をたえず尋ね求め続けるという生き方を余儀なくされていることが、「ノドの地(放浪の地)に住む」ということです。そこはエデンの地とは対照的な地でした。ちなみに、ユダヤ教の学者によれば「ノド」は「エリコ」と考えているようです。それはエルサレムがエデンの園があった場所としているからです。

カインの系譜と「主の御名によって祈る」セツの系譜 - 牧師の書斎 (meigata-bokushinoshosai.info)

④レメクについて
このレメク、エノクもなのですが、謎なところがいくつかあるんですよね。
まず、カインの系譜にエノクとレメクがいます。
そしてセツの系譜にもエノクとレメクがいます。
まあ、口伝の齟齬でこうなったことは明白なのですが、MCUみたいで面白いのでわたしはマルチバース説を推します。善いエノクとレメク、悪いエノクとレメクがいる世界線がそれぞれある。

話を本題に戻しますが、カインの系譜のレメクはすさまじい野心の持ち主というか、まるで自分が神であるかのような振る舞いをしているところが気になります。

カインにはアベルの命を奪ったことや、神に反抗したことを悔い改める描写がありませんでした。
そして、その傲慢が代々受け継がれてレメクの代になったとき、神の行いを人自らが独断で行うと宣言しているように見えます。また、レメクは復讐の連鎖を肯定していることがここからわかります。

余談ですが、一部の方はこの話をもって、人間は罪を背負っているという話を持ち出す説教をちらほら見るのですが、それは違います。
このあとにセツの子孫であるノア一族を除いて、洪水によって人は滅びるからです。
アダムが130歳のときにセツが産まれ、930歳で死んだ、それよりもあとに洪水は起こっているので、カインの系譜が洪水を免れているとは到底思えないからです。
このあと地に悪が満ちるらしいのですが、その悪はいったん滅びているので、カインの悪を現代人に押し付けるのは正しくないと思われます。

⑤エノスの誕生と人々が主の名を呼び始めた関連性

「エノーシュ」(אֱנוֹשׁ)の語源は動詞の「アーナシュ」ׁ(אָנַשׁ)で、「壊れやすい、なおらない、癒えない」といった宿命的な弱さを表わすことばです。こうした弱さのゆえに、主の助けがなければ罪の誘惑に勝てないことを悟ったのかもしれません。また固有名詞の「エノシュ」は同じ表記で「人」を表わす普通名詞でもあります。「弱さを持った人」としての「エノシュ」の誕生は、人々をして「主の御名を呼ぶ」ことを始めさせました。

カインの系譜と「主の御名によって祈る」セツの系譜 - 牧師の書斎 (meigata-bokushinoshosai.info)

これは少し先まで読んで思ったのが、「神の名を呼ぶ」=「神に祈る」ことと同義だということです。
カインの系譜とセツの系譜は明確に違う道を歩んでおり、系譜の中には神とともに歩む者も、世界を滅ぼす大洪水から命を救われた者もいます。

アダムとエバについては、明確に悔い改める描写はないのですが、エバがカインとアベル、そしてその後セツを産むときに
「わたしは主によって、ひとりの人を得た」「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代わりに、ひとりの子をわたしに授けられました」と言っています。神が自分に恵みを与えてくれた趣旨の発言をしているので、セツを産むころには敬虔さを取り戻していたのかもしれません。

⑥7という数字

「7」は、聖書の中で最も大切な数で、完成、完全を意味しています。3は神の世界、4は自然を意味していますので、神の世界と自然の世界を合わせた完成が7ということです。7日目に神は天地創造の仕事を完成され、第7の日を祝福し、聖別され、1週間が7日となりました。聖書には7つのパン、7つの賜物など数多くの「7」という数字が出てきます。また秘蹟の数も7つです。

カトリック河原町教会 - カトリックまめ知識~聖書における「数」のはなし~ (catholickawaramachi.kyoto)

7がよい数字なのは理解できるのですが、レメクの人生が7に彩られているのが気になりませんか? さんざん教会の説教でも傲慢、復讐の連鎖、神に顔を背けた系譜など言われていますが、数字はとてもいい数字なんですよね。
罰や試練が与えられている様子もありません。不思議です。

いいなと思ったら応援しよう!