【読書記録】旧約聖書:創世記第2~3章 エデンの園編

第2章 エデンの園編

原文:創世記2 (churchofjesuschrist.org)

・神は東のかたにエデンの園を設け、園の管理のために人(アダム)を連れてきた。そしてアダムに生き物たちの名前を付けさせた。
・アダムの助手が必要だろうと思い、アダムのあばらから女を造った。アダムは女にエバと名前を付け、妻とした。

第3章 エデンの園追放編

原文:創世記3 (churchofjesuschrist.org)

・へびにそそのかされたエバが、食べてはいけないと神から警告されていた善悪を知る木の実を食べ、アダムにも与えた。
するとアダムとエバの目が開き、自分たちが裸であることに気付いて体を隠した。
神は食べてはいけないと伝えたはずの木の実を食べたことを咎め、へび、アダム、エバを呪った。
へびは一生這うことしかできずに塵を食べる。
女は産みの苦しみを増す。
人は食糧獲得に苦労する、最期は死んで塵に還る。(「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」)

・主はエデンから人々を追放し、園の東にケルビムと回る炎の剣を置いて命の木を守らせた。
人には別の場所で土を耕させた。


【エデンの園】について

エデンとは、主が東のかたに設けた園の名前。
・園の中央に「命の木」「善悪を知る木」、その周囲には見た目も美しく食糧になる果樹が生えている。
・一本の川がエデンから流れ出て園を潤し、下流で4本の支流に分かれている。
・川1:ピソン。ハビラ全土をめぐる。ここの金はいい金で、ブドラクと縞瑪瑙を産出した。
・川2:ギホン。クシの全土をめぐる。
・川3:ヒデケル。アッスリヤの東を流れる。
・川4:ユフラテ。

・この園を耕し管理させるため人を連れてきた
・神は、「園のどの木からでも思うままに取って食べてよいが、善悪を知る木からは取って食べてはならない。取って食べるときっと死ぬであろう。」と警告している。
・アダムとエバ追放後は、命の木の道(園の東)の護衛に回る炎の剣とケルビムを配置。

人の創造について

※1章の補完としての情報。
・主が土のちりで人を造り、命の息を鼻から吹き込むことで、人は生きた者となることができる。
・人を深く眠らせ、眠った人のあばら骨からひとりの女を造った。
・夫婦となるとき、人(全人類のこと)は父母のもとを離れる。


【感想・疑問】

■調べたいこと
・エデンの園についての詳しい解釈(場所・物)
・蛇の宗教的概念
・アダム(最初の人)について
・イチジクの葉
・目が開く
・原罪について


①人のあばらを取って女を創造する
純粋な感想でいえば、まず男が神に創造され、男の一部から女が創造されたことに何らかの思想を感じずにいられません。
そして、なぜ人を眠らせたのか?すごく痛いから?とか、アダムのあばらがアシンメトリーになってしまったのでは?(あばらを取った後に肉で埋めたとの描写があるため)などは思いました。自分でも意識が低すぎるとは思っています。
この「あばら」、調べてみると、この訳自体が間違っているとかの説がたくさん出てきます。

結論から言うと、‘肋骨’の女ではなく、「“命あるものの母としての”女性」と訳すべきであったと私は考えます。

【No.731】「歴史上最大の誤訳 -女は男の肋骨からつくられた-」|京都大学特任教授 資源・環境ジャーナリスト 谷口 正次氏||一般社団法人構想日本 (kosonippon.org)

これは、ヘブライ語で書かれた聖書にシュメール人の遺した文書からの影響が見られ、複数の意味が含まれる単語を「あばら」と解釈したことにより、旧約聖書では「女はあばらから造られた」となった説を挙げています。
古代人の誤訳を指摘する、というのがめちゃくちゃ面白いですね。ただ、周辺の描写から、男(人)から女が作られているのは確定っぽいです。

「あばら骨」と訳された「ツェーラー」(צֵלָע)は、他に「側、板、とびら、脇間、梁」とも訳されます。言わば、この語彙は幕屋・神殿用語、もしくは建築用語です。しかもこの語は40回使われているにもかかわらず、「あばら骨」と訳された箇所は創世記2章21節と22節の二箇所だけです。

2章21節「深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。」 - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

創世記2章21, 22節のあばら骨を、マラキ書は「神の霊」と断じている。

2章21節「深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。」 - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

つまり「骨組み」とか、「根幹」のような解釈ですかね。神の霊が詰まった骨組み部分を少し取って、女を造った(人を2人に分けた)ということかもしれません。

男を手伝うために女がいる、というのはいまや時代遅れの観念かも知れませんが、少し前までは当たり前の価値観であったと思います。古代~少し前の現代まで、生きること、生活することは厳しく難しいものだったと簡単に想像がつきます。
力の強い者、働き続けられる者で考えると、この男と女の役割分担は妥当で、かつ必然であるとわたしは思っています。
そういう当時の当たり前だった思想が反映された結果の描写かなと思いますね。


②アダムについて
わたしはアダムを氏名(固有名詞)だと思い込んでいたのですが、実際は違っていました。

Adamという語は、ヘブライ語で「地面」を意味するadamah(アダーマー)という語の男性形である。この言葉は同時に「人間」(アーダーム)という意味も持つ[3]、かつては個人の名前ではなく全体を表す一般的な名詞として使われていた。

アダム - Wikipedia

もともと「アダム」という単語は「人」という意味だったそう。聖書では定冠詞のハを付けて「ハアダム」(英語でいうと the manのような)と呼んでいるので、「その人」とか、「前の章でも出てきたあの人」という意味合いになってくるのだそうです。
「人は妻をエバと名付け」とあるので、最初の女には明確に氏名があるのですが、アダムは“世界に生きる誰か”ではなく、人そのものというか、0号、初号機、原種(オリジナル)、そういう存在だったのかもしれません。

「耕す」のヘブル語「アーヴァド」(עָבַד)は、「仕える」という意味もあり、モーセの幕屋で仕える祭司用語です。「仕える」とは「礼拝する」ことを意味します。

最初の人(アダム)がエデンの園に「置かれた」目的は、「神に仕えるため」、「神を礼拝する者となるため」なのです。これが「耕す」の本意であり、祭司としての原点なのです。この務めがなされるときに、王としての務めが可能となるのです。この逆ではありません。

2章8節「神である【主】は東の方のエデンの園を設け」 - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

アダムはエデンの園を文字通り「耕し」管理するために連れてこられたわけではなく、神に仕えるためエデンに置いた、と解釈されています。

神は男を造った後、彼を園に置き、「これを耕させ、これを守らせられた」(二)。岩波版旧約聖書は、人が大地に 「仕え、これを守るため」と、より原義に忠実な訳を付けている。

『旧約聖書を学ぶ人のために』 並木 浩一 編・荒井 章三 編(P.179~180)
旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)

神に仕え、また神の被造物を守るということでしょうか。
創世記1章で、人は神に象って造られ、神が創造した生き物を治めるように命じられているので、創造された時点で、人は神の目的を遂行するための存在だったことがわかります。


③罪について
アダムとイヴから原罪が発し、人類全体に受け継がれているというアレです。神が食べることを禁止した果実を食べた→神の言いつけを破ったことが罪?と漠然と考えていましたが、ピンと来なかったので本とか読んでみました。

『旧約聖書を学ぶ人のために』(並木 浩一 編・荒井 章三 編旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)がとても参考になりました。わたしの見解も混ざっていますので、ぜひご自身で読んでいただきたいです。絶版になっているのがとても残念です。電子で復活してほしい。

■「善悪を知る木」を園に置いた意義
「善悪を知る木」は、その木の実に知恵が授かるような効果はなく、戒め(制限ある自由)のために神が置いたとしています。
人間は「戒め」がなければ、まず隣人(仲間)、そして他人を支配し、支配的な社会構造になると人は尊厳を保って生きられなくなる。そして最後には神まで支配しようとするであろう。そのために人ではない神からの戒めが必要なのである。「善悪を知る木の実」を食べると死ぬ、というのは自由の誤用が自らの死を招くと言っているのである。

■蛇の誘惑
蛇は、「善悪を知る木の実」について、食べて神のように全知になることを神が警戒するからで、食べても死ぬはずはないのだとエバをそそのかすのですが、わたしも蛇の言うとおりだと信じてしまってました。エバのことなんも言えないよ。

さきほど挙げた自由の誤用がここに繋がります。
神の戒め(「善悪を知る木」から取って食べてはならないという警告)に疑問を持ったエバは、ここで自ら神の言葉を軽視し、自分にとって木の実を食べるメリットがあるかどうかで判断してしまうのです。木の実を食べた瞬間ではなく、判断基準を変えた瞬間に、彼女の目は開かれたのだと並木浩一先生は論じています。

夫のアダムも、妻が取ってきた木の実を疑うことなく食べています。これも自由の誤用であり、神の言葉の軽視、自分勝手な判断に他なりません。裸であることを恥じるのも、価値観が神ではなく自分中心になったからで、余計な知恵がついたからではないということです。

わかりやすく言うと、エデンは神様がヌーディストガーデンとしていたのに、裸は恥ずかしいことだと勝手に自分の価値観で判断していちじくの葉を着てしまう状況ですね。

神がこのことを知って、2人を探したとき、神は2人が許しを請うことを期待していたようです。
しかし、2人から出てきたのは見苦しい弁解と責任転嫁(しかもいやに解像度が高い)。「あんた(神)が造った妻が食えって言うから食いました」「へびに騙されました(へびってあんた(神)が造った生き物でしたよね?)」と。

この狡猾な返答は、蛇に負けず、神に対する従順と信頼をまったく示さない。 戒めを破った人間は神との境界を踏み越え、神に反抗する。それが罪の姿である。 神との境界を破った人間は最も親しい者との関係をも破る。

『旧約聖書を学ぶ人のために』並木 浩一 編・荒井 章三 編 (P.182)
旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)

つまり、罪の姿とは人が神へ反抗し、裏切る姿ということでしょうかね。ここまでわかると、神の呪いや罰を与える基準という物がおおまかに見えてきます。

■命の木の実について
ちなみに、命の木の実に続く道をケルビムと回る炎の剣で守った、というところからも、ほんとうに魔法のような力がこもっているのは命の木の実のほうだったことが伺えますね。命の木の実は不老不死をかなえてくれる実として有名です。
この命の木の実や善悪を知る木、果物としては何に近かったんでしょう?リンゴ説は聞いたことがありますが、北欧神話とごっちゃになっているか、もとのモチーフが一緒だとか、そういうのがあるんでしょうかね。


④蛇について

ここでの蛇は悪魔を意味すると言う解釈が伝統的になされるが(特に正教会[8]カトリック教会[9]においては現在もそう捉えられる)、狡猾なうそつきの一動物であって悪魔を意味するものではないとする解釈や[10]、「蛇は悪魔を意味する」のではなく「蛇の背後に悪魔が存在する」とする解釈[11]などが(特にプロテスタントで)なされることがある。

原罪 - Wikipedia

蛇そのものをずる賢い誘惑者とするのではなく、悪い者が蛇の姿をもってエバに臨んだというのが共通見解のようです。
疑問としては、「誘惑者が何らかの要因から蛇の姿を取った」ことにすると、罰がそのまま蛇に下る(ちりしか食べられずに一生這う)というところ。蛇が悪の化身として生まれたとする方が分かりやすいですが、神が初手そんなものを創造するとも思えません。このあたり、うまい解釈がないかな~。

ちなみになぜ蛇なのか?ですが、

神が人に与えた意図を人に誤解させること、これが三章の物語における誘惑者の意図であった。最初の夫婦のほかにまだ人間がいないので、物語上、蛇が誘惑者に選ばれた。 蛇は脱皮による若返りの秘術に通じており、被造物の中で「最も賢い」(創三1、新共同訳、「最も狡猾であった」、口語訳) とみなされた。賢くなければ、人間のように言葉を語れず、誘惑することもできない。 誘惑には言葉のやり取りだけが重要である。 誘惑者の姿は描かれず、その言葉だけに照明が当てられる。

『旧約聖書を学ぶ人のために』 並木 浩一 編・荒井 章三 編(P.181)
旧約聖書を学ぶ人のために - 世界思想社 (sekaishisosha.jp)

めちゃくちゃわかりやすい。
へびはよく悪い者の遣いとしても登場するイメージがあるので、創世記が書かれた段階で、すでにへびにそのようなイメージがついていたのでしょうか。


⑤目を開く

目を「開いて」と訳された「ガーラー」(גָּלָה)は旧約で189回も使われながら、詩篇ではわずか4回です。「覆いを取り払う、明らかにする、啓示する、隠れていたものが現われる、裸になる」という意味ですが、同時に「移す、捕囚に行く、捕囚に連れて行く」という意味もあります。捕囚という経験によって視点が移されることで初めて明らかにされるとということです。イスラエルの民はまさに捕囚の経験を通して、神によって賦与されていた「律法」(神の教え)の中に隠されているすばらしい神の祝福、その驚くべき素晴らしさに目が開かれたのでした。

「(目を)開かせる」 - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

わかるようでわからないです。新しい知識を得るとか、気付きを与えるといったような意味で使われていると思ったら、もっと深い意味があるようですね。
神様から何かを教えてもらうのも祝福のひとつだよ~ってことでしょうか。


⑥エデンの園について
アダムがなんのためにエデンに連れてこられたか、そしてアダムとエバの罪のありようがなんとなくわかったことで、エデンの園の存在意義に説明がつくように思います。神様としては、この場所で人が増え、そして果樹を管理しながら共同体を築いていく予定だったのでしょうね。本当はこのエデンが聖地になる予定だったと何かで見た気がしますが、ソースが思い出せません。

このエデンが実際に地球のどこを想定して書かれているかについては多数の説があるようです。このへんは考古学の領域ですし、自分がどれを信じるか、という世界になってきそうです。
というか、東のかたってなんでしょう?

「東の方」と訳された「ミッケデム」(מִקֶּדֶם)、多くの聖書が「東の方」と訳しています。「東」である「ケデム」(קֶדֶם)ですが、どこを規点として東の方なのかは明確ではありません。この語彙は「東」のみならず、「昔」「以前」「前」をも意味し、時の「起点を表わす」前置詞の「ミン」(מִן)の省略形でמִを接頭語とした用法で「以前からある」(מִקֶּדֶם)、つまり、人が創造される以前からある、とも解釈できます。

2章8節「神である【主】は東の方のエデンの園を設け」 - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

この「以前からある」説、面白いのですが、天地が造られてから人が造られるまでほんの数日しかないんですよね。時間の感覚として、「以前からある」とは考えにくい気がします。

エデンがどこであったのかについては古来様々な場所が主張され、議論されてきた。その中には『創世記』に典拠が認められないものも少なからずある。しかし、エデンの場所を推測するにあたって、その足掛かりとして、現在でも確実にわかっている、「チグリス・ユーフラテス川」に着目し、その近辺に存在しているであろうと仮定するのは、当然の発想であり、数ある仮説の多くも、チグリス・ユーフラテス川沿いを想定している

エデンの園 - Wikipedia

もしそこが分かってたら、エルサレムのように聖地になってそうな?そんな簡単な話じゃないか?

■ケルビムについて

契約の箱の上にはこの天使を模した金細工が乗せられている。神の姿を見ることができる(=智:ソフィア)ことから「智天使」という訳語をあてられた。
エゼキエル書10章21節によれば、四つの顔と四つの翼を持ち、その翼の下には人の手のようなものがある。

智天使 - Wikipedia

名前だけポンと出てきてそのまま置き去りにされているので、いったい何???となるのですが、ケルビムはどうやら「契約」に関わる役割を持つ存在のようですね。回る炎の剣は自律する剣ではなくて、ケルビムが宝剣のようなものを持たされてるということでしょうか。
このあたり、下地に神話がありそうで面白いのに、キーワードしか出てこないんですよね。当時の人々にとっては名前を出せば伝わるような、おなじみの存在だったのでしょうか?


⑦いちじくの葉
英語等で「イチジクの葉」(イチジクのは、英語: fig leaf)という表現は、「恥ずかしいことや嫌なことを、無害なもので隠す」という意味で広く使われている。また、絵画や彫像で、外性器の部分を後から覆い隠すためにイチジクの葉が使われることがある。これらは、聖書創世記において、アダムとイヴ知恵の樹から禁断の果実を食べた後に、イチジクの葉を使って裸体を隠したという記述[2][3]への比喩的参照である。

イチジクの葉 - Wikipedia

ダビデ像もいちじくの葉で性器を隠す作品があるとか。いちじくの葉やブドウは宗教的な意味が深いとのこと。

⑧皮の着物
「着る」という動詞「ラーヴァシュ」לָבַשׁには使役形(ヒフィル形)が使われており、「着せる、まとわせる、覆い隠す」という意味になります。この神の行為は堕落した人間を再び建て直すことを意味しています。特に注目すべきは、皮の衣を作るためには動物を屠って血を流す必要があります。「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」と聖書にありますが、いのちの代価である血によって罪が覆われるということが「罪の赦し」なのです。神がアダムとエバに与えた衣は、血を流すことによって作られた「皮の衣」でした。これは、やがてキリストの十字架の贖いの血を信じるすべての者に与えられるキリストの義を表しています。エデンの園でもそうであったように、それは神の一方的なあわれみによるものです。

主は、皮の衣を作り、彼らに着せられた - 牧師の書斎 (meigata-bokushin.secret.jp)

「皮の着物」は生贄の風習と深い関わりがありそうですね。
わたしとしては、神様から賜るものとして「皮の服」は違和感を覚えるのですが、おそらく理由は日本では神様にお供え物をするときに殺生したものは捧げないし、神様からも動物を殺生して作られたものを賜るというイメージがないからです。


たった2ページの話に要素が詰まりすぎてて死にそう。おもしろいですね。
個人的に、罪について解釈をつけられたのがだいぶすっきりしました。『旧約聖書を学ぶ人のために』の並木先生、荒井先生、ありがとうございました。



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