なぜ映画『オッペンハイマー』は「日本でだけ」8ヶ月も公開されなかったのか?(この記事にその答えはありません)
2024年3月29日、クリストファー・ノーラン監督最新作『オッペンハイマー』がようやく日本で公開された。めちゃくちゃようやくである。なぜならこの映画、アメリカで公開されたのは昨年2023年の7月21日。実に本国公開から8ヶ月以上遅れての公開という近年のハリウッド大作としては異例の遅速上陸であった。いったいなぜそんなことになってしまったのか。
結論から言えばハッキリしたことはよくわからなかったのだが、しかしともかく、こんな異常事態をそういうものだろうと流してしまうのはやはりよくない。その理由は後述するが、そんなわけで、なぜ『オッペンハイマー』の日本公開がここまで遅れたのか、答えはないのだが考えることだけはしてみよう。
世界68ヶ国で既に公開されていた
かなり長いのだがこの記事で取り上げる問題の前提として必要なことなので、軽くでいいからまずはこのリストをざっと眺めてみてほしいと思う。
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August 24, 2023
August 30, 2023
November 9, 2023(internet)
November 9, 2023(internet)
March 12, 2024(Hiroshima, special screening)
March 18, 2024(Nagasaki, special screening)
March 25, 2024(advance screening)
March 29, 2024
これは少なくとも英語圏では最大規模のインターネット映画データベースIMDbから抜き出した『オッペンハイマー』の公開日一覧。まぁざっと見るだけでも日本以外のかなりの国でとっくに公開されていることはおわかりいただけるだろうと思う。指を折りながらたどたどしく数えてみるとアメリカでの公開日2023年7月21日とほとんど同時に世界60ヶ国で劇場公開、その後8月に入って中国、韓国、イタリアなど6ヶ国で公開され、2023年11月には劇場公開のなかったアルメニアとタジキスタンでインターネット配信がスタートしている。現在のところ日本より遅く劇場公開や配信がスタートした国はない。
ノーラン映画は日本では絶対にヒットする鉄板作
この一覧が必要だったのは「公開が遅れたのはアカデミー賞の時期に合わせて興行収入を最大化するため説」を一蹴するためだ。実は俺も当初はまぁそんなところだろうと思っていた。だが、この一覧を見れば、公開の遅れが単純な損得計算に基づくものではないことが一目瞭然だろう。公開国を仔細に見ていくとアフリカ大陸は南アフリカなどごく一部に留まっているとはいえ、いわゆる西側先進国だけではなく、クロアチア、クウェート、カザフスタンといった映画文化があまり盛んとは思えずアメリカ文化とも親和性が高いように思えない国でさえ昨年7月の時点で公開されていることがわかる。ウクライナ戦争が米露の代理戦争の様相を呈しているためロシアでは公開されていないとはいえ、『オッペンハイマー』は少なくとも映画文化のある国ではほとんど世界のどこでも公開されており、その中で「日本だけが」これまで公開されてこなかったのだ。
クリストファー・ノーランは日本でも多くのファンを持つ人気監督である。21世紀のスピルバーグと言っても過言ではないほど知名度は高く、ほとんど映画に興味がなくても『ワイルド・スピード』とクリストファー・ノーランの名前だけは知っている、なんて人は少ないんじゃないだろうか。その知名度ゆえか映画館の客足が前年比マイナス95%ぐらいのいきおい(※ざっくり数値です)でマジ激減したコロナ禍最盛期の2020年9月でもノーラン監督作『テネット』は日本で劇場公開され、死地に立つ劇場に焼け石に水だったかもしれないがいくばくかの収益をもたらしたこともある。他の映画はともかくノーランであれば、という劇場や配給の強い期待がそこからは見て取れるだろう。
そのノーランの最新作、しかも内容が日本と因縁の深い原爆開発者オッペンハイマーの伝記とあれば、普通に考えて劇場公開されないということは考えられない。確かに『オッペンハイマー』はそれまでのノーラン映画のようなスペクタクルな娯楽作ではないとしても、ノーランの知名度と題材の(日本にとっての)身近さを考慮すれば、むしろコロナ禍最盛期に公開された『テネット』よりも遥かに手堅い興行が期待できる、と配給や劇場は考えるんじゃないだろうか。
したがって『オッペンハイマー』の日本公開が世界から8ヶ月も遅れたことには「興行収入の最大化」とは別の要因を考えなければならない。具体的には、「バーベンハイマー」炎上である。
「バーベンハイマー」は本当に炎上したのか?
『オッペンハイマー』が長らく日本で公開未定となっていた理由を掘り下げた記事は少なくとも大手新聞にはほとんどない。というか俺が確認できたのは東京新聞2023年9月22日付けの「オッペンハイマー」世界で空前ヒット でも日本で未公開のワケという記事だけで、朝日、毎日、日経、読売、産経の大手五紙のネット版を検索してもそれらしい記事はヒットしなかった。
上記の記事では本国配給ワーナーの作品を通常手掛ける東宝東和に対する取材の回答として「今のところ米国の会社側から何も指示を受けていないので、公開するかどうか分からない」としつつ、デーブ・スペクターのこんな見解を載せている。
バーベンハイマーとは映画『バービー』と『オッペンハイマー』を合わせた造語で、片や超シリアスな伝記映画、片やハッピーでキラキラ(っぽいポスターとか予告編)な映画ということで、その正反対に見えるハリウッド大作2本がアメリカでは共に2023年7月21日の同日公開となったことから、組み合わせの妙でネットミートとなった。コロナ禍の最盛期をハリウッドが乗り越えたことを象徴するこの盛り上がりはアメリカのメディアにも好意的に受け止められて、バーベンハイマー現象などという文字が新聞にも躍る。
それだけならまぁ良かったかもしれないが、#バーベンハイマー のハッシュタグを使って両作の画像をコラージュしたオモシロ画像がアメリカのツイッター等SNSでバズってしまい、そのひとつに『バービー』のアメリカ配給公式ツイッターアカウントがいいねを押して「最高の夏になる!」とかなんとかリプライもしてしまったことで日本のツイッターユーザーの逆鱗に触れて炎上した…というのが新聞とかウィキペディアとか読むと書いてある通説である。
しかし、そもそもの話として、バーベンハイマーは本当に炎上したのだろうか?実はこの造語が日本のSNSにも伝播した当初はほとんど反応はなかった。以下のツイートは検索期間を2023年7月1日~20日に絞って「話題のツイート」欄の一番上で見つけたものだが、通常いいね数やリツイート数が多いものほど上に表示される「話題のツイート」欄において、以下のツイートが一番上に表示され、とくにコメントもリツイートもされていないことは、日本のツイッターユーザーが面白がるにせよ反感を抱くにせよ、ぶっちゃけバーベンハイマーに大した反応を示していなかったことの傍証になるのではないかと思う。
しかし検索期間を2023年7月21日~30日に変えてみると、それまでの牧歌的な光景は退き、かわってバーベンハイマーに否定的にツイートが多くのいいねやリツイートを集めるようになる。たしかなことは言えないが、おそらくそうした潮目の変化に影響を与えたのはTHE RIVER2023年7月26日付けの次の記事ではないだろうか。
その根拠となるかはわからないが、この記事が出た直後には以下のようなバズったバーベンハイマーに否定的なツイートが確認できる。
ただ、この時期の他の「話題のツイート」を見ても、軽い不快感を吐露するか、あるいは軽く面白がるとか、なんかトレンド乗ってるみたいだから一言だけ言及しとくかみたいな他愛ないツイートの方が圧倒的に多く、まとめサイトがよく誇張して見出しにするように「ネット激怒」みたいな状況になっていたかというと、どうもそんな感じとは見えない。
これはあくまでも私見だが、バーベンハイマーは基本的に不謹慎なネタであり、不謹慎だからこそそんなものを面白がるツイッターでネットミームになったとも言えるわけで、その不謹慎さをそれはどうなの的に受け止める日本のツイッターユーザーは上のバズツイートの存在からすればまぁまぁいたことは確かだろうと思う。けれども、それ以上のものでは本来なかったんじゃないだろうか?ちょっとムカつく程度の感情は多くの人にあったとしても許せないとまではいかない。そんな程度の受け止められ方で、炎上というほど非難が集中したわけではないんじゃないかと、個人的には思うのだ。
新聞各社はどう報じたか
ここでツイッターから新聞に目を転じてみよう。大手新聞はバーベンハイマーをどのように扱ったか。なお朝日と毎日のネット版は他の新聞社と比べて有料記事が多く、確認のため仕方が無い課金するか…と思ったのだがクレジットカード決済とかキャリア決済にしか対応しておらず、クレカ申請が通らないのでデビットカードしか持って折らずスマホは格安SIMの俺は有料会員になることができなかったため、読んでいるのは見出しと無料で読めるリード文のみであることを念のため記しておく。大手新聞さんには発行部数やネット有料会員の伸び不足を嘆いてNHKニュースを叩く前に、一人でも多くのユーザーを獲得するためにできること(たとえばデビットカードやプリペイドカードも使える記事単位の販売もするとか)はないか真面目に考えていただきたいと思います…!
「バーベンハイマー」米映画界席巻 「バービー」「オッペンハイマー」 北米興収、3日間で333億円(毎日新聞 2023年7月25日)
映画「バービー」日本公式が謝罪 米公式の原爆画像へのコメント巡り(毎日新聞 2023年7月31日)
映画「バービー」、「キノコ雲」に好意的反応 公式SNSめぐり謝罪(朝日新聞 2023年7月31日)
キノコ雲を合成した画像にSNSで「好意的反応」…映画「バービー」配給元が謝罪(読売新聞 2023年8月1日)
映画バービー米公式が原爆投下に無配慮反応 国内配給元は「遺憾」(産経新聞 2023年8月1日)
「バービー」日本の配給元謝罪 米公式SNSの原爆画像で(日経新聞 2023年8月1日)
以上は朝日、毎日、日経、読売、産経、東京新聞のサイトで「バーベンハイマー」と検索してヒットした、2023年7月20日~8月1日までの記事。東京新聞は2023年8月8日のバービーと原爆の画像合成で騒動に…核兵器への日米の温度差を「バーベンハイマー」の流行から考えるが初出で、それ以前には記事を出していない。
まず一見してわかるのは、早い話が新聞各社はバーベンハイマーに別にそんな興味がなかったということだ。ただネットで炎上かなんかしてメディア向けにワーナーが謝罪文みたいなのを出したので記事として取り上げた、という程度。おそらく実際に日本のツイッターでどのような「炎上」が起こっていたか(あるいは起こっていなかったか)取材した記事はないんじゃないだろうか。いくつか抜粋してみよう。
これは毎日新聞の記事。「日本語のアカウントから批判が相次いでいる」とあるが、具体的にどのような批判があったのかは書かれていない。
こちらは読売新聞。ここにもやはり具体的な「これらの投稿に対する批判」は書かれていない。
これは産経の記事の全文だが、産経に至っては日本のツイッターでどのような反応があったかさえ書いておらず、ただワーナーが謝罪したというだけの記事になっている。
それにしても毎日新聞の変わり身の早さには笑ってしまう。ほんの一週間前は今バーベンハイマー現象がアメリカ映画界を盛り上げているという記事を出していたのに、ワーナーが謝罪文を出すや「原爆投下という悲劇をネタにしないで――」と一転してバーベンハイマー批判に回っている。
朝日新聞7月31日付けの記名記事と翌日8月1日の読売新聞の記事の類似も興味深いところだ。
これ取材どころか読売新聞は朝日新聞の記事見てリライトしたんじゃないの?と思ってしまうが、証拠はないのであくまで俺の妄想ですし、それに『オッペンハイマー』公開延期問題とは関係ないので、それ以上話を広げるのはやめましょう。
「バーベンハイマー」批判から『オッペンハイマー』批判へ
さて、新聞各社のバーベンハイマーの第一報ではどの社もこの話題にはまったく力を入れていなかったことが確認できたが、そんな中で朝日新聞ただ一社だけは以降バーベンハイマーを本紙とネット版の両方で掘り下げて記事にすることになる。
「被爆者の苦しみ消費しないで」署名開始 バービーの「原爆軽視」で(朝日新聞 2023年8月3日)
バービー騒動、批判を浴びた制作者たちへ デーブ・スペクターさん(朝日新聞 2023年8月3日)
「バービー問題」に潜む原爆ポップカルチャーと被爆国ナショナリズム(朝日新聞 2023年8月5日)
そしてここから、バーベンハイマー問題は『オッペンハイマー』問題へと変貌していく。以下の記事はすべて本紙にも掲載されたもの。その『オッペンハイマー』に関する記述だけを抜粋していこう。
(社説)被爆体験伝承 世代超えて継ぐために(朝日新聞 2023年8月7日)
原爆被害の資料、米国で展示する動き タブー視する時代から「変化」(朝日新聞 2023年8月8日)
原爆の父・オッペンハイマーの映画が話題 「被爆地の描写ない」声も(朝日新聞 2023年8月8日)
次の記事は『オッペンハイマー』の具体的な内容に触れた、踏み込んだ記事となっている。
映画「オッペンハイマー」と福島と 核の被害語ることは「悪」なのか(朝日新聞 2023年8月12日)
いずれの記事でも強調されているのは『オッペンハイマー』には原爆被害を直接描いたシーンが存在しない、ということだろう。これはたしかにその通りなのだが、劇中にはオッペンハイマーが被爆者の被害画像を見て狼狽の色を浮かべ、周囲の人々が原爆を浴びて消し炭になったりする光景を想像して怯えるというシーンがあり、これが後にオッペンハイマーが反水爆開発の立場に立つ伏線となっている。つまり「原爆被害を直接」描いたシーンは存在しないが、「原爆被害」については、『オッペンハイマー』では物語上で明確に描かれているのだ。
しかし、「原爆の被害を直接的には描いていない」というような文章から、そんな内容を想像できる人はほとんどいないだろう。むしろ原爆を肯定する映画だと想像する人がいたとしてもおかしくはない。
こうした流れを受けてか、産経と読売も同じような論調で『オッペンハイマー』批判とも取れる記事を出す。
原爆を投下した側とされた側、「リトル・ホワイトハウス」で味わった意識の差(読売新聞 8月25日)
バーベンハイマーの必然 米国が描く原爆の限界(毎日新聞 2023年9月2日)
普段は意見が相違していることの多い右寄りの新聞である読売、産経と、左寄りの新聞である朝日、毎日が、こと『オッペンハイマー』に関しては「原爆被害の直接的な描写がない」という意見で一致しているのだから面白いものだ。これが朝日も記事にしていた「被爆国ナショナリズム」なのだろうか。われわれは原爆を落とされた国の人間である、というその意識が視野を狭め、敵対的な姿勢を取らせてしまい、自分たちを絶対正義だと思わせる。
なぜ『オッペンハイマー』は日本でだけ劇場公開が決まらなかったのか?
なんであれ、朝日、毎日、読売、産経の大手四紙が日本人がセンシティブになりがちな終戦記念日前後に相次いで『オッペンハイマー』が「原爆被害の直接的な描写がない」映画だと喧伝し、それを基本的には映画を非難する文脈で用いていたことは事実。果たしてそうしたネガティブキャンペーンとも言える新聞報道がどの程度『オッペンハイマー』の日本公開無期限延期に繋がったかはどこの新聞も深くは掘り下げていないので(というか東京新聞以外は記事にしてすらいないので)知りようがないが、通常であれば時期は多少ずれても公開されることは間違いないクリストファー・ノーランの最新作がそんな処遇を受けた背景に、こうした新聞報道の影響がなかったともまた断言できない。
『バービー』の日本での興行不振もおそらくは影響を与えただろう。監督はグレタ・ガーウィグ、主演は日本でも人気の高いマーゴット・ロビーとライアン・ゴズリング、この盤石と思われた布陣でありながらも『バービー』は2023年8月11日に日本公開され興行収入ランキングで初登場8位、その後も盛り返しはなく公開3週目にしてランキング圏外へと転落した。その理由としてバーベンハイマー炎上があったかどうかは不明だが、配給の側としてはバーベンハイマーのせいで興行が失敗したと考えるのは自然なことではないかと思う。
こうした諸々を照らし合わせれば、『オッペンハイマー』の配給側が「今の空気で日本公開すれば爆死するし、ついでに炎上させられる」なんて考えたとしてもおかしくはないんじゃないだろうか?
まとめれば、『オッペンハイマー』日本公開無期限延期の判断には、2023年7月後半~8月後半に起こった、次のようなバーベンハイマー問題の発展と波及が影響したのではないかと考えられる。
①日本のツイッターユーザーのバーベンハイマーに対する不快感表明
②それを受けてのワーナーのメディア向けの謝罪
③それを「SNSで批判の声が上がっていた」と説明して新聞各紙が紹介
④バーベンハイマーの背景にあるアメリカの原爆観を主に朝日新聞が問題視
⑤『オッペンハイマー』に原爆被害の具体的描写がないことを主に朝日新聞が喧伝
⑥『バービー』の日本公開と興行的失敗
⑦『オッペンハイマー』に原爆被害の具体的描写がないことを読売、産経、毎日も喧伝
新聞の過ちということでいえば、おそらく最初の一歩が間違っていたんじゃないだろうか。つまり、「ネットで炎上してるらしい」というきわめて雑な認識の元でワーナーの謝罪記事を各紙が載せてしまい、それによって「日本人から批判が殺到している」という、現実には必ずしもそこまでの出来事ではなかったツイッターのよくある光景を、さも大問題のように捉えてしまった。そしてそれを「世論」と勘違いしたことで、朝日なんかは「世論」を代弁しようとバーベンハイマー批判の記事を続けざまに出すことになり、それが反『オッペンハイマー』にスライドし、他社も無責任に追随してしまった。
最終的に映画を公開するかしないかは配給の判断であり、ある映画が公開されないとしたらその責任は一義的には配給側にあるとしても、そのような判断をせざるを得ない状況を作り出した側にも問題がないとはいえない。俺がこのような記事を書いているのは今のところどこの新聞もその「状況を作り出した側」が誰だったのか、それは具体的にどのようにだったのか、検証しようとしないからだ。どうしてそうなったのかわからないまま唯々諾々と大人の事情とやらに従うのは民主主義的な態度ではないし、そんなことしてたらまたいつの日か大日本帝国が再生してしまうぞ。それでいいのか!まぁ読売と産経はいいかもしれないが…。
毎日新聞の社説の声が虚しく響く。
「われ世界の破壊者たる死とならん」…(毎日新聞 2023年8月3日)
日本はまだコロナ禍で負った精神的キズを癒やせていないのかもしれない
個人的な感覚でいえば、ぶっちゃけバーベンハイマーなんてどうでもいい話で、アメリカ人はバカだからまたなんかバカなことで盛り上がってんだろうほっとけ、と思ったし、『オッペンハイマー』に原爆被害の直接的描写が出てこないことも単にそういう作劇の映画というだけで、それをどう評価するかはともかく、問題視する必要は全然ないと思う。
なのにどうして大手新聞各社はバーベンハイマーと『オッペンハイマー』をこれほど問題視したんだろう。それで、ふと思いついたのだが、日本はもしかするとコロナ禍で負った精神的キズを癒やせていないのかもしれない。日本はおそらく世界でトップクラスに感染抑制に成功した国で、強制力を伴う措置(都市封鎖など)を行わずにそれを成し遂げたわけだから、そこには多くの日本在住者の自発的な協力があった。強制ではなくてもマスクはみんなしていたし(俺は今もしてる)、ワクチンだって強制ではないのにだいたいの人が何度も打った(俺も無料分は全部打った)。
その行動心理には自分が感染したくないという恐怖もあったかもしれない。しかしそれと同時に、もし自分が感染していた場合に、他人に感染させてはならないという意識も強くあったんじゃないだろうか。他人に新型コロナを感染させること。これは言い換えるなら「他人を傷つけること」になるだろう。そして今、日本は「他人を傷つけること」にとてもとっても敏感である。
コロナ禍以前の2019年、「他人を傷つけること」を根拠に右翼界隈が吹き上がり、あいちトリエンナーレの『表現の不自由展』が開催一時中止に追い込まれたことをみなさんは覚えているだろうか。一般に、保守は「他人を傷つけること」を好まない。その行動の結果として大抵の場合他人を傷つけがちなのだが、行動の根拠は移民排斥にせよ芸術展示の反対にせよ教科書の歴史記述への介入にせよ、その攻撃対象が「他人(=自分たち)を傷つけるから」なのである。『表現の不自由展』でとくに問題視されたのが昭和天皇の写真かなんかを焼くパフォーマンスのビデオ展示だったことはその象徴といえる。『表現の不自由展』を攻撃したおバカな人々はそれを「他人を傷つけること」と解釈したし、実際自分たちはそれで傷ついたりしたんだろう。他人を傷つけながら平然と生きていけるワイルドな人ならそもそも保守になんかならない(だから、コワモテの右翼というのは本当は小心者だったりするのだ)
「他人を傷つけること」はまた「他人に迷惑をかけること」とも換言できる。そしてコロナ禍最盛期の日本では、これを咎める風潮が非常に強まった。本来ならば政府の求める行動制限に自由を是とするリベラルから強い批判が出てもいいはずである。けれどもちょぼちょぼと歯切れの悪い批判はあっても俺の知る限り肝の据わった批判は保守はもとよりリベラルの新聞や影響力のある知識人からも出てこなかったし(東浩紀とかは結構言ってたが)、むしろ逆に、行動の自粛やワクチンの自発的接種をリベラルは推奨し、そしてその根拠に「他人に迷惑をかけること」の不道徳を、保守がいつも外国人なんかに対してするように、陰に陽に持ち出したりしたんである。
俺はコロナ禍の最盛期においてそうした判断は決して間違ったことではなかったと思う。病気で死ぬ人を少しでも減らすのはそりゃ良いことに違いない。けれどもそれはあくまでもコロナ禍最盛期という緊急事態において要請される判断やモラルであって、コロナ禍を完全には抜け出していないにせよ、少なくとも最盛期を過ぎた今では、「他人に迷惑をかけること」を忌み嫌う態度を、ちょっと捨ててもいいんじゃないかと思う。なぜなら人間は誰でも「他人に迷惑をかけること」なしに生きることは確実に絶対完全に間違いなく不可能なので、その制限は即ち個人の自由の制限と直結してしまうから。
日本における一連のバーベンハイマー問題に横たわるのはこの自由を制限する保守的な「他人に迷惑をかけること」の忌避感だと俺は思う。バーベンハイマーがイヤなら単にそれを視界に入れなければいいだけなのに、新聞などはそのムーブメントを「他人に迷惑をかけること」だと判断して咎め、これを撤回するよう求める署名運動までリベラルの側から出てきてしまった。たとえ『オッペンハイマー』に原爆被害の直接的描写があろうがなかろうがそんなもんは個人の好みの問題であり、それがイヤなら単に観に行かなければいいだけの話なのに、朝日新聞はそれを「他人(広島や長崎の人たち)に迷惑をかけること」だから悪いことだと捉えてしまった。
こうした現在のリベラルの保守化は、コロナ禍以前に『表現の不自由展』の中止を求める右翼に対して、リベラルの新聞や知識人がほとんど一丸となって抵抗したことを思えば、ため息が一つや二つでは済まないが、それというのは結局、日本社会がコロナ禍の保守的空気を未だに引きずっているということなのかもしれない。なんだかんだコロナ禍が残したキズは深かった。それは、それを日本の人たちが自覚できないくらい、深いキズなんである。
人間は他人に迷惑をかけずに生きていくことは決してできない。その、コロナ禍以前であれば少なくともリベラルには当たり前だった、そしてそれが相模原の大量殺人のような蛮行を否定する根拠となっていた思想(非迷惑主義とは、生産性至上主義の言い換えだ)を、そろそろ取り戻してもいいんじゃないだろうか?じゃなかったら全世界の誰か一人でもわたしは傷ついたと訴えればどんな映画も公開ができなくなってしまう。それは単に映画が観られるか観られないかの問題ではなく、人間の自由と、社会の形に関わる、もっと大きな問題なのである。