今こそ読みたい第三波フェミニズム本
いわゆるひとつのMeToo運動から早十年弱が経過しようとしているが、その余波と言うべきか、昨今の日本のとくにSNSではフェミニズム・ブームの様相を呈しており、SNSだけでなくリアル世界の本屋さんなどに行ってもフェミニズム本は目立つところによく平積みされている感じである
ということでSNSを見ていると「あれは本当のフェミニズムじゃない」みたいな反動のポストは結構見かけるのだが、そのたびに俺はまったくこいつらときたらと呆れてしまうもので、フェミニズムにホンモノとニセモノがあるのだと思っているのだとしたら単純にそいつはフェミニズムを学んだことが一切ないんである。しかし困ったことにじゃあそれを第四波フェミニズムとざっくり呼ばれるところの現在の主流フェミニズムの共鳴者たちが理解しているかと言うと、俺の見たところでは大抵の人がまるで理解していないように思える。
なぜそういうことになるかと考えるに第四波フェミニズムはSNSをその温床とするものだが(日本にも強い影響を与える韓国の現代フェミニズムなどは掲示板闘争とハッシュタグ運動によって広まった)、SNSというのは共時性の非常に強いメディアであり、これは同時代の人たちとの横のつながりにほとんど特化しているということを意味する。そのためSNSに対して図書館のような「メディア」に代表される縦のつながり(通時性)、言い換えると知識の積み重ねなどは軽視されてしまうわけである。
そうした理由から第四波フェミニズムとそれ以前のフェミニズムは分断されているところがあり、少し前の世代の人なら日本のフェミニストといえば上野千鶴子を連想する人は少なくないだろうが、SNS上の第四波ファミニズムの中で上野のフェミニズム理論が参照されることは皆無に近いと言ってほどで、これは他のフェミニズム理論家たちも例外ではない。
こんな状況はなんだかあんまりである。フェミニズムというのは決して運動だけではなく、その運動の支柱となる理論もまた100年以上の歴史があり、積み重ねがあり、洗練されてきたのに、先人たちのその遺産に第四波フェミニズムの批判者はもとより賛同者までもまるで目を向けないのはいかがなものか。というわけで謎の義務感に駆られてここでは完全に素人の俺が超個人的に第三波フェミニズムの面白さやエッセンスをプチ書いてみようと思う。
なおこの記事は論文とかのたぐいではなく俺もフェミニズム思想を体系的に学んだわけではないので記述はかなりいい加減である。そこんところは差っ引いて話半分で読んでいただいて、興味があれば専門の先生の書いたものを読んでもらうなどしてください。
第三波フェミニズムに至るまで
現在主流のSNSフェミニズムは第四波、ということでそれ以前のフェミニズムには三度の波があった。第一波フェミニズムと呼ばれるのは基本的に女性参政権を求める運動であり、時期は国によって結構バラつきがある。その代表的論者は厳密には第一波以前というべきだが『女性の権利の擁護』を著したメアリ・ウルストンクラフト、SFホラーの先駆的小説『フランケンシュタイン』で知られるメアリー・シェリーのお母さんということでなかなかすごい母娘である。
第二波フェミニズムはさまざまな分野での女性の権利の拡張を求める運動・思想と言えばいいのだろうか。現象としては1960年代から公民権運動と併走する形でアメリカで興ったウーマン・リブが、人物としては『第二の性』のシモーヌ・ド・ボーヴォワールが代表的だが、この時期はフェミニズムが哲学やマルクス主義の刺激を受けて思想的深化を遂げた時期なので、さまざまなフェミニズム理論が花開いた(『家父長制と資本制』の上野千鶴子もこのへんの人)
で問題の第三波フェミニズムというのは主に1990年代前後に現れた、デリダやフーコーやラカンなど現代思想の成果を取り入れたフェミニズム思想で、第一波や第二波に比べて運動というよりも理論的側面が強い。俺はここがフェミニズム思想の今以て最前線であり、そのため理論が後退し運動偏重となった第四波フェミニズムは、少なくとも理論面では退行と言わざるを得ないと思っている。だから、今こそ第三波フェミニズムを読んで、いまだ多くの可能性を秘めたその理論を発展させることが、即ちフェミニズムの発展になるのではないかと思うのである。
第三波フェミニズムって具体的にどんなの?
論者によって対象も方法も様々だが、最大公約数的に言えば、「男女の絶対的区別という前提を疑う」のがまぁ第三波フェミニズムとざっくり言ってもいいんじゃないかと思う。第三波フェミニズムでは「本質主義」とか「構築主義」とかよく言うが、本質主義というのは「男女には生まれつきこれこれの性質が備わっている」という考え方で、構築主義というのは「男女のさまざまな性質は後天的に(社会の中で)構築されたもの」という考え方。第三波フェミニズムが依って立つのは当然後者の構築主義であり、「男らしさ、女らしさ」というようなものは本質主義的であるとして基本的には否定される。
昨今あちらこちらでいささか濫用気味に使われている「ジェンダー」という言葉も第三波フェミニズムの主要な用語。これ自体は第二波フェミニズムの頃に発明された概念だが、第二波フェミニズムが行った身体的な(生まれつきの)性を意味する「セックス」と社会的(に構築された)な性を意味する「ジェンダー」の区別に第三波フェミニズムは更に切り込み、セックスもまたジェンダーによって構築されたものである可能性を論じる。その考えを推し進めていけば男女の本質的区別はないということになるので、第三波フェミニズムはフェミニズム思想の臨界点なのだ。
現代思想の中でもとくにデリダの「脱構築」という概念というか方法論は第三波フェミニズムのメインウェポンである。脱構築というのは要するに「これはAとも取れますしBとも取れますし、どっちとも取れますよね?」という例えは悪いかもしれないがひろゆきの詭弁みたいなやつである。なぜこれを第三波フェミニズムが用いるかといえば、たとえば『コマンドー』みたいなすげーマッチョな映画があるとして、それは普通に見ると「マッチョだなー!」とかしか思わないわけだが、脱構築のふるいにかけるとそこに「マッチョの中にある反マッチョ性」とかが見えてくるのである。
そのように第三波フェミニズムは「そうとしか見えないもの」を解体し、人間を「どうとでも見える」さまざまな側面を持つプリズムのような個体に還元する。そのことでセックス=身体的な性に囚われない人間像を提起するってわけで、よく「フェミニズムは解放の思想」とか言うが、第三波フェミニズムは本質的な意味で人間解放の思想であるといえよう(したがって、第三波フェミニズムの観点から、女性というセックスに依拠することの多い第四波フェミニズムは、むしろ人間の潜在的な可能性を閉じてセックスに縛りつけるものとして批判され得るのである)
第三波フェミニズムの代表的な人たち
第三波フェミニズムの代表格といえばジュディス・バトラー。主著『ジェンダー・トラブル』はいかんせん現代思想みが強く何を言ってるのかワケワカメ感ハンパないのだが(それはこの本がラカンやクリステヴァといった現代思想家のテキストの脱構築を行う、どちらかといえば哲学の分野の本だからである)、それでもわかんないところは気にせず飛ばしながら通読すれば、なんとなく第三波フェミニズムのエッセンスや面白さが掴めるんじゃないかと思う。
追記:この本の眼目は「ジェンダーは固定的なものではなく常に揺らいでおり、日々の何気ない行為によって再定義され続ける」という主張にある。その点で現代のトランスジェンダー思想と繋がるところがあり(ただしトランスジェンダー思想はジェンダーを固定的なものとみなす点でバトラーの反対を行く)、ジェンダー論としても面白く読める。一言で言えば、「動き続けろ、同じ振る舞いを繰り返すな」というのがこの本の提示するフェミニズムである。
押井守が映画『イノセンス』に名前を引用したことでも一部マニアに知られるダナ・ハラウェイは『猿と女とサイボーグ』において、動物行動学の実験に見られるセックス・バイアスを批判する。動物行動学の実験でオスにはこんな行動がメスにはこんな行動が見られたというが、それは実験の際の環境設定に雌雄で行動差が出るようなバイアスがかかっているからで、別の環境を設定すれば結果も変わるではないか、みたいな感じである。たとえば、なぜエサが豊富にある環境ではなくエサが欠乏した環境でのみ雌雄行動の差異を捉えようとするのか、とか。これは物事の前提を疑うことの大切さとその方法論が学べる本なので、フェミニズムに興味がなくても面白く読めるんじゃないだろうか(ただし例によって現代思想みが強く、ハラウェイの文調が皮肉っぽいのもあって、あまり読みやすい本ではない)
ガヤトリ・C・スピヴァクは第三波フェミニズムというよりはポスト・コロニアル(欧米の帝国主義思考を批判してそうでない思考を模索する分野、みたいな説明でいいんだろうか)の分野で言及されることの多い思想家だが、その方法論は第三波フェミニズムと通底し、主著『サバルタンは語ることができるか』はサバルタン(従属的な立場の人)女性の表象不可能性という形で、第二波までのフェミニズムも含めた欧米的な人間の属性分け思考、それによるセックスへの従属を否定する。とそれっぽく書いてはみたものの実は難しくてぶっちゃけ意味がわからなかった本である。
精神分析家のリュス・イリガライはラカンの弟子筋ということで第三波フェミニズムよりちょっと前の2.5波フェミニズムみたいなポジションだが、イリガライの展開する精神分析の性差別批判は第三波フェミニズムにも受け継がれているので、やはり第三波フェミニズム関連で読んでおきたい人。しかし日本では精神分析自体が結局は根付かなかったこともあり、あまり読まれていないらしい(というわけで古本が高くて俺も読んでません)
第三波フェミニズムはなにせ難解なこともあり第二波フェミニズムのような大衆的盛り上がりもなく、日本においては世間的に完全空気だったと暴言気味に言ってもよいんじゃないかと思うが、そんな逆風にめげず日本の野蛮大衆に第三波フェミニズムを紹介してくれたのが竹村和子であった。今年めでたく復刊された『フェミニズム』はフェミニズム史をサラッとおさらいしつつ第三波フェミニズムの難解な思想を噛み砕いて教えてくれる好著。フェミニズム本でも読んでみるかという人がいたら俺はこの本を最初の一冊に薦める。
『愛について』は母娘の社会的分化(象徴界への参入とか言ったりしますな)以前の関係を考察した野心作。第四波フェミニズムの文脈では反出生主義との関連でも読まれる(らしい)『母親になって後悔してる』が話題になったり韓国フェミニズムのベストセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』で長男を優遇する母親に対する秘めたる憤りが描かれるなど、母親に対して否定的な眼差しが向けられることが多いのだが、『愛について』では母娘の強い結びつきの記憶の忘却とその回復が描かれ、出版当時よりも今の方がインパクトのありそうな感じである。
今あえて第三波フェミニズムを読む意義
てなもんで完全門外漢による第三波フェミニズム雑紹介でした。第三波ではなくフランス現代思想とかエクリチュール・フェミニンなんて呼ばれる流派に属するので書けなかったが個人的にはジュリア・クリスティヴァも面白いこと書くな~意味はわからないけど!って感じで好きなのだが、まぁそれは別の話ですからね。とはいえクリステヴァも第三波フェミニズムの源泉の一つではあり、批判的に継承されているところがあるので(バトラーの『ジェンダー・トラブル』はクリステヴァ批判に一章を割いている)、こちらも興味があれば手を伸ばしてみるとよいはず。『女の時間』などは比較的読みやすいと思われ。
第三波フェミニズムを今読んだ方がいいんじゃないかと思うのは単純に刺激的で面白いってのがまずある。性に関する物事の前提を疑い解体を試みるのが第三波流なので、さいきん本屋さんに平積みされている第四波系のエッセイ本とかよりたいていの場合はラディカル。たしかに内容は難しいが、難しい分だけ読み応えがあるとも言えるので、ハードな読書体験を求めるタフな読書家ならフェミニズムに興味があってもなくても楽しめるだろう。
もうひとつの理由は第三波フェミニズムの理論が分断の乗り越えを志向するものだから。あっちでも分断こっちでも分断というのが今の世の中。まぁなんでもかんでも繋がればいいってもんじゃないし分断それ自体が問題とも思わないが(むしろ逆にあえて距離置くことも対立回避のために超必要だと思ってる)、とはいえ過剰な分断は敵対の元、戦争の元である。第三波フェミニズムはそうした世の中に対するアンサーとなり得る。第三波フェミニズムの本を一冊読んだからといって世の中が変わることはまったくないと思うが、少なくとも世の中の見え方はちょっと変わるだろう。それはAからBへというような変化ではなく、AでもBでもあるというような変化である。つまり思考の選択肢が増えて視野が広がる。そのような人が世の中に増えれば、結果的に分断による戦争の危険も減るんじゃないだろうか。その意味で第三波フェミニズムはフェミニズムの枠を超えたフェミニズムなんである。