読み放題対象「彼らが燃やした本はなんだったの?~100分de焚著~」
KADOKAWA焚書の件である。
KADOKAWAが2024年の1月に出版予定だったアビゲイル・シュライアー著の『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(邦題)という本が出版停止になった。本国でも活動家の抗議で一時販売停止になったり、検索から除外されたり曰く付きの本であるが、現在では英米圏では堂々と電子版でも紙でも売られ、Amazonでも高評価のベストセラーの本なのに、その邦訳が出版停止となってしまった。
流石に言葉失うが、日本では「正しい人たち」の圧力で「言論の自由」よりも、「LGBTイデオロギーの正しさ」のほうが優越してしまった。この本の著者アビゲイル・シュライアー氏には「日本の検閲勢力を増長させた。こういう奴らへの対処方法を教えてあげられますよ」(大意)とまでいわれてしまった。何がすごいって、トランスイデオロギーの正しさが猖獗を極める本場米国よりも、そういった文化的な内的必然性に希薄な「日本」のほうが容易に「正しさ」によいしれ、無責任状態で暴れることである。日本のリベラルは、もはや「日本の検閲勢力」として世界的に知れ渡るのが流石に真顔になる。
原題は”Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters”である。普通に訳せば「不可逆な損傷~私達の娘を誘惑するトランスジェンダーの流行(熱狂)」だ。日本で「禁書」となったため、逆にAmazonの「洋書欲しい物リスト」で上位にランクインしている。かくいうニワカもこの騒動が契機で面白そうなので買ってしまっている。
とにかく、KADOKAWAは「タイトルやキャッチコピーの内容により”結果的に”当事者の方を傷つけることとなり、誠に申し訳ございません」と謝罪し、発行停止にした。わざわざ「結果的に」「タイトルとキャッチコピー」と書くのは、いかにも内容など全く読んでないくせに表面的なタイトル等をあげつらい、「私が不快を感じたら全てこれヘイト本なのだ」(朝田理論)で喚き立てるアレな抗議ばかりだったのではないか?
(この謝罪文には、私には出版現場の皮肉すら読み取れる)
このときのKADOKAWAに対する一連の攻撃――その恐ろしさの一端を窺わせるのは、KADOKAWA翻訳チームの以下のポストである。
「皆様からいただいたコメントに対する『いいね』につきましては、本日20:30以降、随時取り消させていただきます」といっている。わざわざ「いいねリスト」見に行って怒り抗議する人もいるわけである。「いいね」ですら、「おい!こいつらは全然反省してないで”いいね”してるぞ」などといいだす「正義の人々」へ無限の「配慮」が必要になった――KADOKAWAがこのようなツイートをすること自体が(そのあとポストが停止している)、いかに出版の現場が萎縮しているかわかる。
だが、この「検閲勢力」のヤバさを象徴するのは「正義の攻撃力」にはない。むしろ「無責任の体系」である。
なにしろ「ぼくは、あの本の原著を読んでいないので内容はわからないけど」などと、なぜか自分自身はよんでない(語りうる権限がない)ことをアピールしながら、「出版停止にしたのは出版社の独自判断なんだから出版社に何が悪かったか聞けよ」といったことを言い出す人々が散見された。
さらには「あの本の内容はトランス死ね死ね本である」「本に書いてある通りにすると人が死ぬレベルのもの(だから出版停止されても仕方ない)」と言い出す人もいた。
たとえば以下もおそらく読んでもないくせに、表面的な(キャッチコピー等の)情報や、レビューや読んだと僭称する人々の適当な情報をもとに(自分は読まずに)「トランスヘイト本」と当たり前のように決めつける人々の姿である。
ともかくも、いつもは「物言えぬ空気がー!」「言論が萎縮する!」とかいってるひとたちが、「私たちの正義に反するものには社会の害悪であり言論の自由なし。多様性の統一!」という態度でこの刊行停止を認容していった。
この界隈では「これは悪の国家権力による検閲ではなく、良識的な市民による正当なる抗議だ!」「私達は抗議をしただけで出版停止にしたのは出版社の独自判断なんだよ!(私達は知らない!)」みたいに揃っていいだした。
だがいってみればこんなものは「私達は執拗に死ね死ねと言い続けたが、いじめられてた人間が勝手に死んだだけだから私達は知らない(死んだやつに理由をきけよ)」みたいな理屈である。
この無責任な体質とは一体なんだろうか。それ相応の言論弾圧行動をしておいて、攻撃された相手に責任を押し付け、自分たちはその行動の結末に一切の責任をとろうとしない。すなわちこれこそが「無責任の体系」ではなかろうか?
「日本の戦時中の全体主義」を他国のファシズムとは違う特徴から、「無責任の体系」と批判したのは丸山真男である。
丸山真男もびっくりである。まさに多様な意見を抑圧し、ひとつの正しさに統一しようとする全体主義的態度を実行するのが、現代では「自由主義」を標榜する人たちによる「無責任の体系」なのがなんという皮肉だろう。それこそ「他者に対して平然と出版停止という重大なる犠牲を強要しておきながら、その責任はとらない。いや正確には、責任を引き受ける感覚がそもそも欠落している」のだ。
この「無責任の体系」こそが、実は、この「焚書」になった本の内容ともリンクしていて恐ろしい。「無責任の大系」を書いた本が、「無責任の大系」において取り締まられたのである。
私は実際に読んでみた。
この本は何が書かれている?ってもちろん表面的な内容だけでも「ヘイト本」ではない。「トランスの人々など異常であるから矯正治療しろ」などとは1ミリも書かれていない。
なかにはトランスイデオロギーが過激化して言論の自由を取り締まる態度に対して、「判断能力が未熟な未成年を誑かし、(結果的に)去勢を選択させてきた責任問題、人権問題を糾弾される恐怖からだ」という声もあった。確かに「思春期の子供たちをトランスのイデオロギーで一定方向に誘導して、思春期ブロッカー(薬物)からはじまり、ホルモン注射、トップ手術(乳房切除)などの不可逆なコースに誘導する大人たち」の「無責任」状態とも似ている。だがそもそも彼らの問題は「責任を恐れる」ことにない。そうではないのだ――「責任をハナから自覚しない態度」なのだ。「誰も責任をとらず、そもそも責任を引き受けるという感覚自体が不在で、正義で狂奔できるシステムが完璧に構築されている」――この「無責任の体系」が生まれてしまうその理由を探った本だといえばわかりやすいだろうか。それはどういうものだろうか?
実はこの本に全部かいてあるので、ニワカが日本語翻訳が禁じられた本を大胆にわかりやすく論点整理をして、「100分de焚著」をお送りしようと思う。
以下わかりやすく解説していきますね。
ともかくも、この本は「読んでないのに叩かれた」、もっと悪いのはチェ
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ニワカ式note リベラルは窓から投げ捨てよ!
優しいネトウヨのための嬉遊曲。 おもしろくてためになる。よむといいことがある。
和菓子を買います。