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すばらしき世界✖️ヤクザと家族

「すばらしき世界」と「ヤクザと家族」は同じヤクザ映画か?

今日も一日お疲れ様です。
今週から役所広司さん主演の「すばらしき世界」が、横浜シネマリンさんなど、全国のミニシアターで公開されはじめました。
大きな映画館で上映されていた作品が時間が経ってミニシアターで再公開されることを「ムーブオーバー」と呼んだりします。
シネコンで見逃した作品も「ムーブオーバー」を使えば、劇場の大きな画面で安く観ることができるんです。
ここがミニシアターのありがたい点ですよね。

さて、今回は「すばらしき世界」と、同時期に公開されて大きな話題を呼んだ「ヤクザと家族」について考えてみたいと思います。
結論から申し上げて私は、「すばらしき世界」のほうが好みの作品でした。
しかしこれは個人の好みなのでみなさんにとってはどうでもいいことですよね。
今回個、私が主張したいのは「すばらしき世界」と「ヤクザと家族」を同じ「ヤクザ映画」として語るのはナンセンスなのではないかということです。

この2作品は「ヤクザ」という同一の題材を扱っていることによって、公開当時から多くの人に比較されてきました。
しかし、私はこの2作を同一の軸で比較するのは少し間違っているのではないかと感じます。
主人公の葛藤が生まれる原点(テーマのようなもの)が、2作品では大きく異なっているからです。

「すばらしき世界」の主人公、三上は「自分自身の正義」と「社会」との対立に悩み葛藤します。
「ヤクザと家族」の主人公のケン坊は「ヤクザ」と「社会」の対立に悩んでいます。

この二つは似ているようで全く違うものではないでしょうか。

三上は、自分自身が正しいと思っていることが世の中とは異なっていることから生まれる違和感に苦しめられます。
言い換えれば良かれと思ってやったことが、すべて裏目に出てしまう日々に葛藤するのです

一方でケン坊は社会全体の「ヤクザ=悪」という社会からの大きなイメージに葛藤します。
真面目に働きたいと思ってもヤクザだからダメ、ヤクザだから愛する人と引き離されてしまう。
このような出来事に象徴されるような、個人がどのような性格を持っていようと、世の中は「ヤクザ」としてみなすことへの理不尽がこの作品には巧みに描かれていました。

まとめると、二人が相対しているものは同じ「社会(世界)」なのですが、そこに対立しているものが

自らの精神=「個人」
ヤクザ=「集団」
になるのです。よって、

「すばらしき世界」は「個人の正義」と「社会」の対立
「ヤクザと家族」は「ヤクザという集団の正義」と「社会」の対立

を描いているといえます。
ここからわかるのは、「すばらしき世界」はヤクザという設定を借りなくても成立しうる内容だということです。
この作品は、タイトルにもある通りと私たちの住む「世界」のモラルに疑問を投げかける作品なのです。そこに「ヤクザ」かどうかは関係ありません。

私がすばらしき世界を評価する理由は、「自分自身が正しいと思っていることが、他者と違ったらどうするか」という誰もが経験する問いかけを作品が含んでいるため、物語への共感性が非常に高いからです。
物語を見ている間中、登場人物の行動に対して集中力を切らさずに楽しむことができました。
一方で「ヤクザと家族」は、主人公の苦しみの全てが「ヤクザ=反社」というグループへのイメージからくるものだったため、ヤクザではない自分にとってはすこし共感できない物語に感じてしまいました。

この2作品、みなさんはどのようにご覧になったでしょうか。感想を聞かせてください。
明日は日曜日。ミニシアターでもう一度このことを考えながら作品を見てみようと思います。

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