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日進月歩は少しずつ進まない

急速な変化のことを「日進月歩」と呼ぶ。
そう知ったのは、ついさっきのこと。Webで調べて知った。
危ない危ない…「少しずつでも進んでいくこと」みたいなニュアンスで使用しようと思っていた。この歳になっても、言葉の解釈違いがどんどん出てくるので、常に勉強や調べ直しは怠ってはいけないな、と再認識。

この間も、『甚だしい』と『著しい』の違いは何だろうと調べた。現在では前者がネガティブな意味、後者がポジティブな意味に使われることが多い。また、逆の誤用をするところだった。
誤用と言うには少し言い過ぎかもしれない。前者も昔は良い意味で使われていたらしい。ただ、そんなことを言い始めるとキリがない。古語と比較するのか、となってくるとおかしくなってくる。
『きりぎりす』は古語では「コオロギ」。『つとめて』は早朝のこと。今では”努める”という、全く別の意味を孕んでいる。これは音感だけの話で、漢字を当ててみるともしかしたら意味がわかるのかもしれない。そもそも漢字もないのかもしれない。
ただひたすらに、間違いだとコトを荒立てる風にはなりたくないと思う。

こういったニュアンスの違いや違和感は、大切にした方が良い。
そして、それを対話で言語化できる相手がいると、尚、良い。
人間は考える葦であると同時に、コミュニケーションを言語でとれる生き物だ。これがあったおかげで、現在の独自の発展・コミュニティ形成に至ると思っている。
と言うことで、私はそういった対話が好きだ。何なら言葉を面白おかしくこねくり回してしまうときもある。いわゆる、言葉遊び的なこと。そういったニュアンスや語感の違いで面白いと思ったことを、さも通じるだろうと言葉にすることもある。いやはや、それがなかなか通じない。ただ、通じたときは何とも言えない嬉しさや面白さがある。自分たちしかわからない合言葉を言い合っているようなシンパシーを感じる。

そういうわけで…と言いたいところだが、どういうわけなのかわからない。
何はともあれ、言葉の意味やニュアンスを自分なりに「咀嚼して嚥下して理解して使う」この流れはとても大切なことだと思う。
現代社会に物申すわけではない。ただ、私が肌で感じることが一つ。今の20歳以下の子たちは本を読む習慣があまりないように思う。そうするとどんな影響があるか、科学的なそれはわからない。調べてもいないし、論文も読んでいない。あるのかどうかもわからない。
そして、肌で感じる。言語化能力・思考力の低さ。特に後者、考えることが苦手な人が多いように思う。
昨今では動画配信サービスやアプリケーションのおかげで、シームレスに場面転換されており、かつ、考えなくても使いやすいツールがとても増えている。常に娯楽のピーク。面白さを向こうから教えてくれる…いわば受動的になりやすい。こういった環境が影響しているのではないか。
前述したことが正しいかどうかもわからない上に、それが悪いことなのかどうかもわからない。そこに関しては、当人が感じて・決めること。
ただ私はそこに、ディストピア感を感じ、自分はそうなりたくないなと思う一心で、今日もまた好きな配信者の動画を見る。

そこには抗えない何かがあるのも、わかる。
私は常に、そういった環境とともに言葉遊びをしながら生きていきたい。このブログも引き続き更新していきたいと思う。


それでは、また。

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