生きものの「正解」
悲しい、辛いニュースを見ると、心が塞ぎます。
なぜ、争いは無くならないのか。人間は、どうして歴史の中で同じような間違いを形を変えて繰り返すのか。人も、人以外の生き物も、自然も、傷つけるのか。なぜ平和的には生きられないのか。
子どもの頃からたびたびその問いに行き当たります。そこで理想の平和な世界を思い描いてみるのですが、どんなに思い描いても、そこに人間はいませんでした。どう考えても、近現代の人間と人間の文明そのものが他の生きものたちの平和を邪魔しているように思えたのです。でもなぜなんだろう、人間以外の生きもの同士だって、生きるために相手を欺いたり、争ったり、奪ったり、決して品行方正清廉潔白とはいいきれないのに。人間と他の生きものは、根本的に何が違ってしまったんだろう…。
動物にも、植物にも、独自の社会があります。でも、人間の社会と決定的に違うのは、とてもシンプルに「今と未来を生きるための社会」であるということのように思うのです。人間の社会では「過去」がより大切にされているので、とても複雑になっている気がしてなりません。
そう思ったのは、生物の進化について勉強した時でした。環境が過酷でも生き延びるために陸に上がろうと思えば足が生え、呼吸ができるようになり、空を飛びたいと思えば羽が生え、あるものは敵を騙すために体の色を変え、あるものは超音波で世界を知る。「生きたい」というたった一つの目的のために、何万年かかっても過去に囚われずに意志の力で体の形を変え、機能を変えることができる。それこそが、「生きもの」本来の姿なのではないだろうか。人間は、過去の人間の考えややり方を守ろうとするあまり、生きるための思いを強く持つことや、それによって起こる生物的な進化を止めてしまっているのではないだろうか。そのことによって、無理や矛盾がたくさん生じているのではないだろうか‥。
きっと、個々がそんな風に「今と未来」のために体の形を変えるほどの意志を持ったら、人間という社会は発展してこなかったのでしょう。良くも悪くも国や社会という単位で動くには、同じように考え、同じように動く必要があったのではないでしょうか。少なくとも、未来永劫人間というものは同じ「なにか」であるとその想定で物事を考え、整える必要があったのかも。
そんな人間社会に近年起こっている問題には、共通点があるような気がしてならないのです。増え続けるアレルギーやウィルスによるパンデミック。これらはいずれも自己免疫の暴走が原因とも言われています。人間の一般社会にも、似たようなことが起きているような気がします。敵でないのに敵と認識して攻撃してしまう。そして自分自身も、傷つけてしまう。生きものとして、よりよく生きるというシンプルな意志を貫くことがこんなにも難しいことに、まるで体全体の細胞がパニックを起こしているかのように。
表題の写真の絵は、「曇天の光」という2014年の作品のごく一部です。
この作品は、全体的には花が描いてあるように見える絵なのですが、近くで見ると、ひとつひとつの細胞の集合体なのです。これは木槿(むくげ)という花の花脈が「どこに向かおうとしているのか」を実際の花びらを拡大して細かく観察しながら、描いて行った比較的大きな作品です。描き始める前は、当然のように花の細胞はみんな太陽の方へ、あるいは外側に向かって、ある規則性をもって流れていると思っていたのです。
ところが、実際描きとってみると、規則性があるようで、ない。
2017年に「空に焦がれた記憶」というタイトルの作品を描きました。同じ画法でより細胞の不規則な規則性というものを抽象化、デザイン化した形で描いてみたのですが、規則性がわからないながらもとにかくその細胞の方向性をなるべく忠実に描きとる、ということをした「曇天の光」という作品には迫力で敵いませんでした。
ひたすらに、花の脈の成り立ちを追ってひとつ気づいたことがあります。
花のかたちという枠組みの中で、多くの細胞がひしめきあい、成長していくことで花そのものという一つの完成形になるわけですが、その花脈を拡大してみたときにみられる特徴は、「規則性はないけれど同じ枠組みの中でバランスよく、柔軟に補完し合う」ということでした。
それ自体が理想的な社会の縮図のようにみえたのです。その細胞のひとつひとつには、「意志」を感じました。ひとつの「花」という美しい完成形を守るために、互いに譲り合い、突出したものがいればバランスを取り合う。他より大きすぎる個体や変形した個体が現れた時は、まわりが少し小さくなったり、形を変えて全体のバランスを取る。
こうありたいという細胞ひとつひとつのはっきりとした意志がなければ、こうはうまくバランスを取れないのかもしれません。個々が真に自立してよりよく変わっていくことを恐れない、これが生きもの本来の、正解なのかもしれません。
写真:「曇天の光(一部)」(niŭ 2014/絵画作品 60号)