![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/66667971/rectangle_large_type_2_f169f5759feb5a97e233e0ec0efb8d63.jpg?width=1200)
「総量」のこと。
子供の頃から、時々、寝ている時や歩いている時、お風呂に浸かっている時、作品制作で単調な作業に没頭している折など意識が自由な時に、ふと「世の中のことわりのあらまし」といったものが、考えるでもなくふわっっと浮かび上がるように思い至ることがある。
考えて導き出した答えでも、何かを調べたり読んで影響されたわけでもなく、ある時、急に日常の中にふわっと現れる。そうとしか表現しようがないのだ。
でも、突拍子もないものが出てくるということはなく、長年の疑問の答えだったり、なんでだろう、どうしてだろうと感じていたことの答えが急にすとんと腑に落ちる、というような感じで、途方もない気持ちになることはあっても、恐ろしいと感じたことはなかった。
多分それが、ものづくりの原動力のような気もする。
伝えたい、というような大義を背負っているというよりは、きっと今は常識的でないと見過ごされても、いつか発見され解読される文字のように書き留める、というような感覚で。
例えば今日などは、
「総量」
というのが、地上でも天上でもありとあらゆるところで予め決まっているのではないか、と思い至った。
例えば…。
地球には、ありとあらゆる生物がいるが、生物の「総量」は予め決まっている、というもの。
「生物」は動物でも植物でも、微生物でも粘菌でもなんでもよくて、何かが増えれば何かは減るし、それは残酷なまでに淡々とそれ以上でもそれ以下でもない。
ということ。
中学生から、身近な「死」というものがいくつもあった私は、死について考える機会が多かったのだけれど、10代の後半には、輪廻転生とは、都合よく魂ごと誰かが誰かにすっぽりと生まれ変わるといったことではなく、死ねば地球上を構成する物質に分解され、還っていき、また新たな生命の材料となる、といったことを希望的な要素を含めて語られたファンタジーであると(自分なりに)理解した。火葬場の煙突から天に上がる煙を見ていると、そう思えてならなかった。
それは、今日思い至った「総量」の話とも繋がって、妙にストン、と腑に落ちる。
ところで、地球がこんなにも生物が繁栄したのは、その「総量」のバランスが長い間、しっかりと保たれていたから、なのではないか?と思った。
地球の生物のバランスに大きな変化がある時をみても、隕石の落下などで物質の総量が崩れるという事象が顕著だ。
地球環境の問題では、過去と同じ形を保とうとする、という考え方には無理があるような気がしている。ならば、総量が同じままで形を変えていくということが多分最も、健全な気がする。
以前、絵を描くために花の脈を観察していたときに、一枚の花びらの中でも、大きくなりすぎた脈があれば、周りの脈が小さく変化して全体の形を保ち、「総量」を守ろうとする働きがあるということに感動した。
ゆっくりと、植物が種から大木になっていくようにゆっくりと、でも確実に、地球の生き物として相応しく「総量」を遵守する種に、人間がなっていけたらいいなと思う。
補い合って。
写真:2014年の個展「模様とパターン」展の作品から。細胞の自由意思、がテーマ。次に丸を描きたいと感じた場所に小さな丸を描いて行き、一つ一つにここにはこの色と感じた色を塗っていくという作品。その連続が、自然と模様やパターンになる、ということを示した。