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Rよ、35年経ってもおれは恨んでいるぞ
(引用開始)
AI による概要(「倫理」と「道徳」の定義について)
倫理と道徳は、どちらも社会生活において人として守るべき行為の基準を示す言葉ですが、倫理は社会的な規範、道徳は個人的な規範を表します。
倫理とは、社会生活の中で決められたことを人(社会)として守るべきことを意味します。医療倫理、政治倫理、情報倫理など、社会的な規範として用いられます。
道徳とは、社会生活の中で決められたことを個人として守るべきことを意味します。道徳心、道徳の高い人、道徳観など、個人的な規範として用いられます。
(引用終わり)
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件は1988年から89年頃、世間をにぎわした陰惨な事件である(いわゆる「ミヤザキ事件」。犯人のミヤザキが逮捕されたのは89年の7月頃)。
この頃、おたく界隈ではこの事件に関していろいろと騒ぎになっていた。
ということは、わざわざ書かなくても多くの人が知っているだろう。
当時、いたいけな大学生だった私は、
「おたくも自身の倫理観、道徳観を持つべきではないか」
と真剣に考えていた。
ミヤザキ事件の前、エロマンガやエロ同人誌はとにかくやりたい放題という感じだったしね。
しかし現在、私はそんなふうには思っていない。
「おたく的な趣味生活とは別のところから、倫理観、道徳観は引っ張ってこないといけない。おたく趣味の内部からは倫理観、道徳観は醸成されないし、それで良い」という考えだ。
もちろん、おたくも社会的規範を守るべきだが、創作の世界、想像の世界に限って言えば、倫理観、道徳観を構築して、どうなるものでもない。
さて、1989年のいたいけな大学生だった私は、Rという同級生に、
「おたくも倫理観や道徳観を持たないといけないんじゃないかなぁ」
と言ったのだが、それについてRは、
「新田の言う倫理観と道徳観って何? 倫理観と道徳観って、違うものだよ?」
と冷たく言われたのだ(ちなみに彼は法学部だったので、その手の定義に厳しいことは何となく察せられた)。
そして、いざ本質を問われるとタジタジとなった私は、小一時間、倫理観と道徳観の説明をさせられた。
そして「それは違うなあ」、「それは倫理観とは言わないよ」など、さんざんRにダメ出しされたが、倫理観と道徳観の明確な違いは教えてくれなかった。
Rは小一時間後に、
「やっぱり新田の言う倫理観や道徳観の意味がわからないよ」
と言って、その話は終わった。
つまり、
「おたくは倫理観や道徳観を持つべきではないか」
という私の話の本題には、入れなかったのだ。
Rと話をしていたときは、
「自分は倫理観と道徳観の区別もついていなかった。勉強不足だなあ」と思っていたのだが、大学の教室を出て、電車に乗り、家に帰ってきたらだんだんこの会話の意味がわかってきた。
Rは、もともと「おたくは倫理観や道徳観を持つべき」という話なんかぜんぜんしたくなく、理由は不明だが、私を「倫理観と道徳観の定義を述べよ」とさんざん振り回して、ケムに巻いたのである。
簡単に言えば、私を愚弄したのだ。
「そんな話、したくないよ」と言えば済んだのに。
Rはもともとそんな性格の悪いヤツじゃなかった。ふだんは気のいいヤツである。
そして、とりたてて「おたく」というわけでもなかった。普通の青年だった。
それが、私が「おたくも倫理観、道徳観を持つべきだ」と言ったとたん、何かの逆鱗に触れてしまったのだろう。そんな議論、したくもなかったのだろう。
だから、いたいけだった私を振り回して、会話を通して弄ったのである。
あれから35年くらい経過しているが、もともとRが気のいいやつだったこともあり、その不可解さと相まって。
思い出すと、いまだに激烈な怒りが襲ってくる。
おれの右こぶしの「倫理観」、左こぶしの「道徳観」でボコボコにしてやってもいい。
まだそれくらいの元気はある。
Rよ、来るなら来い。
真冬の新宿中央公園で待ってるぞ。
おしまい