【短編小説】バスルーム・コミュニケーション
その日は本当に最低だった。
雨だし、風が強いし、午前中に会議があったから早く出勤しなきゃならなかった。
出勤したら給湯室のインスタントコーヒーがなくなっていて(昨日の夜確認した時はあったのに!)大雨のなか買いに行くことになったし、部長が遅刻したせいで会議室の空気が最悪で、上司にまた嫌味を言われた。
「相澤さんはかわいいから、お茶汲みと議事録なんて簡単なので感謝されていいね」
そういうことがあっても、私はだいたいにへらと笑い返して謝ることしかできていない。その態度も、相手をイラつかせてしまっていると気づいてるのに。
しかも、なにしろ、こんなコンディションの日に恋人に振られた。お昼休憩のタイミングに!長文ライン1通で!!20代後半に差し掛かった女が費やす一年半をなんだと思っているんだ、と返信してやりたかったけれど、もう午前中に起きていた色んなことで疲弊しきっていてなにも言い返すことができなかった。ただ、全部のアルバムを消してからブロックしたくて、それをちまちまやっていたらお昼休憩が終わった。
こんな最低な日はなかなかない。毎日に評価をつけるサイトがあれば、今日なんかには星1もあげたくない。でもああいうサイトって、星0個ってできるんだろうか。必ず1はつけなきゃいけない仕様だったら、今日みたいな日にも星がついてしまうの?
「それはやだな。ディズニーランドに行く日は星5なのに、今日みたいな日につく1個の星もディズニーランドにつく星とおんなじ価値なんて絶対ありえない。」
バスルームの中で湯船に浸かりながら、私はひとりでつぶやいた。ここまで思考していたことも、どの程度声に出している分からないくらい自分と会話している。
今日は雨に濡れて寒かったし嫌なことばかりだったから、いつもより長く浸かろうと思って、浴室にスポドリを持ち込んでいた。
ディズニーランド、と言ったから、ディズニーソングが思い出されて思わずふんふんと歌ってみたりする。あい、のー、ゆー、のやつは白雪姫だっけか、何姫だっけ。なにはともあれメロディーが素敵だなと思っていると、すぐ隣の左手の壁から音がした。
とんとん。
音が、した…と思ってすぐ、反射的に歌うのをやめる。そんなことは初めてで、もしかして聞き間違いかな?と思う。
とん、とんとん。
すぐにもう一度とんとんされた。全然聞き間違いじゃなさそう。2回目の方は明らかにはっきりと、隣の部屋からノックされている。私の声がうるさかったんだ。
「ごめんなさい…」
私はそれまでの威勢を完全に失い、蚊の鳴くようなちいさな声で謝った。が、反応がなかったので、壁に耳打ちするように手で空洞を作ってもう一度謝ってみた。
「うるさくしてごめんなさい…!」
「……いいえ…」
男性の声が、バスルームに微妙に広がる。こわ…!!こんなに壁が薄かったのか!と反省しつつ、私は急いでバスルームを出た。
全ての支度が終わって布団に入ってからも、音を立てないようにと思って静かにして、お隣さんの生活音か何か聞こえないかなと耳をそばだてたけれど、特になにも聞こえなかった。
その日から毎日お隣さんが気になりつつも、あんまり人がいるって感じがしないまんま2週間くらいが経った。
バスルームで喋ることができなくなってしまって、私は少しむしゃくしゃしてきていた。幼い頃からバスルームで喋ったり歌ったりすることがストレス発散方法だったから、それができなくなってしまったのはこころ的に致命傷らしかった。でもまあ、これまで誰かに怒られなくて迷惑だと気づけなかったのは良くないし、今の時点で気づけてよかったなんて思っている。
ただ、お隣さんと対面するのだけはちょっと怖くてこれまで以上に存在を意識するようになった。アパートの階段や廊下で会ったりしないよう、人の気配を察知しては逃げたりしている。
そんなことをしながら今日もやっと部屋に着いたから、ふうう、と肩を撫で下ろしてしゃがみ込んでしまった。疲れが限界を迎えている…。
最近は上司からの当たりが日に日に強くなってきていて、最低の星1だったあの日みたいな嫌味も増えた。でも、
「でもなぁ」
一概に責められないんだよ、とも思う。思いながら、お風呂に入る準備をはじめた。
昇進したから4月から仕事も責任も増えたんだろうし、大変なんだろうと想像できる。コツコツキャリアを積み上げてきている真面目な上司だから、もっと上の人たちからも期待されてるんだろうなと思ったりする。
いいなあ。私とは仕事の内容が全然違うから、なんか、偉いって感じがする。総合職の女性ってかっこいいな。地位があるって感じ。
「すごい立派って感じする…」
「…そうでもなくないですか?」
ばちゃん、と思わず水面を叩いてしまった。
わたし!いつの間に!いつから!声に出してしゃべってたんだろう!?
気づいたらもうバスルームでお湯に浸かっていて、完全にリラックスしすぎて思考が声に出ていたみたいだった。
お隣さんから声をかけられたことに驚きつつ反省しつつ、私は次になんて言ったらいいかわからなくて、口元をぶくぶくと水面に沈めて様子を見た。
「…き、気持ち悪かったらすみません…。」
浴室にお隣さんの声が小さく響く。
いえ…とは思いつつ、まだ怖いからなにも答えないでみる。
「…あの、そんな、立場の違いとか気にしなくていいような気がします…。」
「え?」
お隣さん、どうやら私の話をめちゃめちゃ聞いていそうだった。ちょっと気味が悪かったけど、やさしい声色だったので悪気はないのかなと思った。
「あの、事務職とか総合職とか、どちらが上とか下とかなくて、結局お互いを補ってるじゃないですか。会社にとってはどちらも必要だと思います。」
「そ、そうですよね、私があの、違うんです…事務職が下とか思ってるんじゃなくて…私が至らなくて、それで怒られちゃうから。」
「あなたは別になにも悪いことしてないと思います。しっかり業務に徹してて、イライラしてる先輩に理不尽に怒られてるのに、相手の事情まで考えて黙ってる。やさしいですよ。」
やさしい?
え、私は上司に対してやさしいのだろうか。やさしいっていうのは、上の立場の人が下の人に施すものなんじゃないのか。余裕があるからできる行為というか、やさしいって、私が必死にやっているこれとは違う気がした。
「やさしいですかね…」
「やさしいですよ。理不尽に耐えてて、あなたはいつもえらいなあって、盗み聞きだけど思ってました。」
理不尽に耐えてるって、そう、そうだよな。
私、耐えてるよな。やさしいんじゃなくて、ただ我慢しているよな。
そうだ、そうだ、と、こころの中の聴衆の声が大きくなってくるのを感じる。
「理不尽に耐えることが、えらいですか?やさしいでしょうか……。
私は、一年半もの間たくさんの感情を費やしてきた彼にLINE一通で振られて、癇癪も起こさずなにも言わずにいられます。上司に見た目がどうとか理不尽に怒られても、笑って謝ってます。
でも、なにも感じてないわけじゃない。私だってムカつくし、雑に扱われて悔しいと思ってます!だけど、それを私が態度に出したところで、私を大切にしてくれない人たちには響かない。きっと同じ土俵で闘わせてもくれない。私のこと馬鹿にしてるから。
なんで私がいつもいつも我慢しなきゃいけないんですかね。私よりいっぱいお給料貰ってる上司とか、私より優れた大学に行ってた彼氏とかのわがままな物言いに対して、なんで私が吸収剤みたいににこにこしてなきゃいけないんだろう。サンドバッグじゃないんですけど!
あーあ!誰かにすごーく大事にされたいな!あーあ!!みんな私より余裕あるはずなのに!もっとやさしくしてくれたっていいじゃん!こんなの弱いものいじめじゃん!あーあ!もう嫌だな!地元に帰りたーい!!」
バシャーン!
私は湯船の水をお隣さんの壁の方にぶち当てた。ばしゃんばしゃん、何度も何度もぶち当てた。
「こんなの!耐えたって!損なだけじゃん!!なのにこれができてるからえらいってひどいです!!
これがやさしさだって言うんなら、私はやさしくなんかなりたくないです!!」
バスルームに声がわんわんと響く。
気づけば涙が出ていた。湿気と湯船の水とで、私は自分がどれくらい泣いてるかあんまりよくわからなかったけれど、とにかく絶えず涙が出てくる。顔も髪も涙か水かでぐちゃぐちゃになり、長風呂のせいなのか、怒っているからなのかわからないけれど、どんどんと体が火照りだす。あつい。倒れそう。気持ち悪い。
「お隣さん、ごめんなさい今日はもう出ます。大声出してすみませんでした。」
お隣さんに申し訳ない気持ちもあるけれど、いまはそれどころじゃなく自分の感情でいっぱいでどうしようもなくて、逃げるようにバスルームを出る。
冷たいお水を一気飲みして、私は思う。さっき大声で叫んだことは、なにひとつ間違ってなかったな、と。
やさしくするの、辞めたいな。抵抗したいな。だけど抵抗すると相手を傷つけちゃう。私を大事にしてくれない人なんて傷ついちゃえ!と思えるならいいけど、私にはまだそれが難しかった。ほんとうの意味で自分を大切にすることが、私にはまだ難しそうだった。
だけど、お隣さんは私のことを褒めてくれていたのに、すごい勢いで抵抗してしまった。
顔が見えないからって、相手がどう感じるか考える隙間がなくなってしまっていた。きっといい人だったのに、傷つけたかもしれない。
もう一度謝りたいなと思って、試しにバスルームの壁をノックしてみることにする。
とんとんとん
気づいてもらえるように勇気を出して、結構大きめな音でノックしたけれど、お隣さんから返事はなかった。
次の日のお昼頃。おやすみだったのでコンビニに行こうと外に出たら、アパート廊下の床がブルーシートで覆われている。一階には引っ越しのトラックが止まっていた。このアパートって空き部屋あったんだっけ?とぼんやり思ったけれど、あんまりみるのも失礼になるかもしれないと思い、目を伏せながら階段の方へ向かってみる。引越し業者の人が大きな家具を抱え、狭い廊下をこちらに進んできた。
「こんにちは〜、ご迷惑おかけしま〜す!」
「あ、どうぞお気になさらず〜」
すれ違って、私の部屋の方に歩いていく。あれ、と思って振り返ると、お隣さんの部屋へと入って行くのが目に入った。
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