悲しみについて考える
柳宗悦さんの『南無阿弥陀仏』なかにある悲しみについての言葉が響いた。
先日読んだ「はじめての利他学」の最澄の「共苦する」ことと似ているように感じた。
最澄の利他は人間を超えた領域まで広がっている。自然や動物、生きとし生けるもの。
そして自らの恩恵を優先しない。
自分にとって誰かに良い行いをすることでもなく、共苦すること。
苦しむものがいるならそばにいようとすることが利他の形があると知った。
そして、ネガティブなものだと思っていたものの捉え方が自分のなかで徐々に移ろう感じにどこか喜びのようなものを抱いていた。
南無阿弥陀仏の内容をシェアします。
悲しみを悲しむ心とは?
「悲」とは含みの多い言葉である。
二相のこの世は悲しみに満ちる。そこを逃れることが出来ないのが命数である。
だが悲しみを悲しむ心とは何なのであろうか。
悲しさは共に悲しむ者がある時、ぬくもりを覚える。
悲しむことは温めることである。 悲しみを慰めるものはまた悲しみの情ではなかったか。
悲しみは慈しみ(いつくしみ)でありまた「愛おしみ(いとおしみ)」である。 悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。
仰いで大悲ともいう。 古語では「愛し」を「かなし」と読み、更に「美し」という文字をさえ「かなし」と読んだ。 信仰は慈みに充ちる観音菩薩を「悲母観音」と呼ぶではないか。
それどころか「悲母阿弥陀仏」なる言葉さえある。 基督(キリスト)教でもその信仰の深まった中世紀においては、マリアを呼ぶのに、'Lady of Sorrows'の言葉を用いた。 「悲しみの女」の義である。
愛しくて悲しい
悲しいという感情は、できるだけ抱きたくないと思っていた。
映画で感動する映画を観たいのはなぜだろうと内省していくと、何かを愛しいと思える気持ちを大切にしたいからという答えに行き着く。
どうして、悲しいと思うのか。
泣きたくなるのか。
それは、その人との時間が愛しくて、失ってしまうことからなのかもしれない。
共に苦しむということも、ぼくには難しいことだと思っていたけれど、もしかしたら無意識のうちにやっていることかもとも思った。