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旅先でも走る理由

本日、エマヌエーレ・コッチャさん著『家の哲学』読書会の収録した分の1回目が公開された。

本を通じて、家の概念がガラリと変わった。

きっと読書会で選書されていなければ読むことはなかったと思う。

例えば、服も家であるという発想。

服のおかげで、わたしたちは根本的には家からけっして出ることがない。わたしたちは家を背負い、第二の皮膚へと変様させる。服のおかげで家は、巨大なコンテナから姿を変え、世界を選り分ける繊細で機敏な乗り物となる。反対に言えば、服――家の動く流出物――のなかで、家は私的なもの、見えないものの空間であることをやめ、顔を変えつづける個人を現前させる、たえず動きまわる公的なスペクタクルとなるのである。  
だからこそ衣服と家は、別々に研究することができない。服は、境界線の外からも中身が見えるようにするショーウインドーとなった家であり、家は、それを着るもののあらゆる変様をしまいこむ、精神的なキャビネットとなるまでに拡張された衣服である。

『家の哲学 家空間と幸福』エマヌエーレ・コッチャ,  松葉類著

そう考えると、これまで思っていた雨風を凌ぐ家とはかなり狭いものかもしれない。

台所を通じて暮らしを感じる

台所というエッセイの話から、その土地の食材を購入して料理をすることは、その土地とつながる行為だと思った。

同じように走る行為も近しいことだと、宇野常寛さん著『砂漠と異人たち』の本で語られていたこと感じている。

走るという土地へのアプローチの魅力は、旅先でもその力を十二分に発揮する。僕はこの数年の間に旅行や出張で訪ねた街で走ってきた。仕事でよく通っていた京都をはじめ、国内では大阪で、札幌で、盛岡で、金沢で、佐賀で、八戸で、岡山で、高知で、福岡で走った。外国でも走った。ソウルで、上海で、香港で、台北で、パリで、パロアルトでも走った。旅先で僕たちは常に余所者だ。しかし、外国の街を走っているときにとくに感じることなのだけれど、余所者は走っているときだけその街の住人になることができる。街を歩いているときは、どれだけ慣れていても僕らは余所者だ。

『砂漠と異人たち』宇野 常寛著

旅先で、荷物になるけどランニングシューズを持参して朝ランニングするのは、その街の住人になることを体験するためかもしれない。

もちろん、それだけではないけれども、車や電車で移動するのとは違うスピードで体感できるものがある。

今日は、ランニングシューズを購入した。

これもまた家の拡張であり、きっとこのシューズが自分のフィールドを広げていってくれるのだと思うとおもしろい。

どんな景色が見えてくるか楽しみだ。

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