【小説】 In the blink of an eye
人々が桜の美しさに顔を見上げる頃、僕は憂鬱に押し潰されて横になっていた。憂鬱とはあまりにも対照的な外の陽気は、僕を強く、強く布団に押しつけた。
高校は春休みに入り、授業はなかったが部活には精を出していた。それでも、部活の練習に行く時間以外はこうして横になる事が増えた。そういえば、部活でも上手くいかない事が多くなった。勉強の出来は元から悪かったが、今学期の成績表には目も当てられなかった。
平凡だった日常が最後に訪れた記憶は、既に不確かだった。それでも、こうして横になると瞬く間に過ぎていった日常のシーンが脳裏を駆け巡る。頭の中の方が幸せに過ごせるようになってからは、現実と妄想の見境がつかなくなり、気付けば一人でいる時間が増えた。
一人の時間は続く。夕方が近づくと、いつものように携帯が鳴る。友人達からの遊びの誘いは決まった時間に来る為、いつの間にか、それが僕を現実に引き戻すアラームになっていた。しかし、今日のアラームはいつもより早い時間に鳴った。
日差しが乱反射する部屋の中で目を細めながら手を伸ばし、携帯を指先で引き寄せてから手に取った。画面の上に表示された名前は想像と違ったが、それは見慣れた名前だった。
「最近元気ないって聞いたけど、大丈夫?」
2ヶ月前に別れた彼女からだった。
彼女との出会いは、一目惚れだった。
人に惚れるような日とは思えないほど、凍てつくような冷たさの雨粒が降った冬の日。
部活の遠征で他校に訪れた時に、身体と同じ大きさ程のアコースティックギターの入ったバッグを背負っていた彼女を見かけた。
バッグのショルダーストラップを大切そうに抱える彼女が愛おしく見えた。
そんな彼女の事が気になり、試合の合間を抜け出して彼女が向かった校舎を覗きに行くと、一階の教室で弾き語りをする彼女を見つけた。
弾き語りをしていたその曲が、僕の大好きな曲だった事が、さらに運命的な出会いにさせた。そして僕は、着ていたベンチコートのポケットに入れていた携帯を手に取り、窓をノックした。
「あの、」
彼女は演奏をやめた。
「え?」
「あの、」
窓の鍵が空いていたので、自ら開けてしまった。
「LINE交換しませんか?その、好きな曲だったので、気になって、歌もギターも上手いし、その、」
「えっと、LINEだけなら、まあ、」
彼女は悪い人ではないと分かったのか、この不審な男に逆らうとタダでは済まないと思ったのかは定かではないが、僕は連絡先を交換する事に成功した。
それから、積極的に連絡をするようになった。話を合わせるために、部活の合間を縫ってギターの練習をしたら、調子を落としてレギュラーから落とされた。彼女が好きだというロックバンドを、本当は嫌いだったけど、好きになろうと毎日聴いた。
それから付き合う事になったが、1年目の記念日を迎える直前に、別れを切り出された。元から遠征先の出会いだった為、家や学校の距離が遠く、お互いに時間を作れない日々が疎遠の理由になってしまった。
彼女と別れた日は、今日のように心理状態とは対照的な、暖かく穏やかな立春の日だった。この憂鬱がその日から始まった事だけはハッキリと覚えている。
全てが瞬く間の出来事だった。
そんな彼女からのメッセージで記憶を辿っていると、もう一度携帯が鳴って、妄想から目が覚めた。外はもう薄暗くなっており、押し付けるような陽気も消え去っていたせいか、体が軽く感じた。
「今日飯行くけど来る?」
いつも通り友人からの誘いだった。僕はいつも通り「今日は行けない」とだけ返した。
一人でいる時間だけが続く。
軽くなった体を起こし、彼女からのメッセージが表示されたままの携帯を机の上に置き、引き出しをあけた。
特別なプレゼントをあげた事はなかったが、彼女とはお互いに、記念日の1ヶ月毎に手紙をプレゼントする習慣があった。
普段伝えられない言葉や想いを手紙に記し、大切な日に渡す。会えない時間の長かった僕たちにとって、手紙を渡す事は、充分な愛情表現だった。
彼女はいつも、水色の封筒に手紙を入れて渡してくれた。机の引き出しは、11枚の水色の封筒で埋まっていた。この引き出しを見ると、頭の中の想い出がより色濃く思い出す事ができるので、好きだった。
字が汚く、手紙の書き方も分からなかった僕は、少しでも彼女を笑わせようと、コンビニで買ったご祝儀袋やお年玉袋に入れて手紙を渡していた。
手紙の内容も、聞き慣れない方言で書いたり、インターネットで翻訳した知りもしない言語で書いたりした。
彼女は呆れながらも、毎月笑ってくれた。
そんな思い出の詰まった引き出しには、水色の可愛らしい封筒の雑多の中に、一枚のクラフト封筒があった。地味で思い出の物とは思えないその封筒には、12ヶ月目に僕が彼女に渡せなかった手紙が入っていた。
初めて真面目に書いた手紙は、渡せなかった。今まで手紙を渡す事が恥ずかしくて、笑わせる事しか出来なかったけど、彼女には心の底から喜んで欲しかった。
上達しなかったギターも、好きになれなかったロックバンドの話も、ただ純粋に、彼女に喜んで欲しかった。
言いたかったけど、言えなかった。
渡したかったけど、渡せなかった。
それでも、時は瞬く間に過ぎていく。
彼女との日々のように。
「もう一度会いませんか?」
精一杯のメッセージを送った。
手紙を渡す事が出来たなら、想いを伝える事が出来たなら、変わっていたのだろうか。
部屋では変わらず、一人の時間が流れるだけだった。
※物語はフィクションです。