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下に引っ越してきた新聞屋

僕がまだ18歳だった頃の話。
周囲を田んぼに囲まれた長閑な田舎で育った僕は、上京していよいよ始まった一人暮らしに胸躍らせていた。

僕の初めての一人暮らしは、京王線の明大前と代田橋の丁度中間位にある六畳一間のアパートで始まっていた。

大学の授業やらサークルやらバイトやら、いつでもやる事はいっぱいで、純真無垢な田舎者は「あらゆることを適度にサボる」という技を未だ覚えておらず、1人で生きるということに関連する全てに対して一生懸命だったように思う。

アパートは決して高級では無かったが、木造全12室の2階の角部屋で、初めての一人暮らしには必要十分だった。

それはある日の昼頃だったように記憶している。
引っ越したばかりでほとんど来客なんてないはずのチャイムが鳴った。
当然インターホンなんて洒落たものはついていなかったので、チェーンロックをかけてドアを少し開けると、

「下に住んでいるものですが、ご挨拶に来ました。」

と満面笑みの黒髪オールバックのおっさんが立っていた。
そうか、下に住んでいるなら仕方ない、ちゃんと挨拶しておくか、とチェーンロックを外してドアを開けた。

この頃の僕は基本的には人を疑わない性格だった。
田舎の実家の玄関の鍵はいつも空いていたし、テレビで流れていたあらゆるニュースは、東京の危険な大都市で起こっている自分とは一切関係のない他人事の出来事であって、18歳までの自分にとっての世界は完全に平和で穏やかで安全なものだと信じきっていた。

ドアを開けると
玄関内に彼は入って来て、

「下に引っ越して来た○○新聞のものです。これも何かのご縁ですから、新聞の契約しませんか?」

!?!?

な、ん、だと、!?

うちの真下に新聞屋が引っ越して来たの?
そうなの?どうゆうこと?
と脳内パニックで処理が追いつかなくなっていた。

「今なら洗剤とトイレットペーパーとジャイアンツ戦のチケットも差し上げますし。半年だけで良いんで。」

「兄ちゃんとはこれからご近所ですしね。よろしくお願いしますよ。」

出会って1分で兄ちゃん呼ばわりされ始めた。

僕「このアパートの1階に引っ越して来たんですか?」

彼「ええ、そうです。」

満面の笑顔で圧をかけてくる。

今だったら鍛えた上腕二頭筋を使いアームロックでお終いにすることも出来るが、当時の僕にはとてもそんな事は出来なかった。

本当に下に引っ越して来たなら、ここで断ったらややこしい事にきっとなる。
家はバレてるし、見た目的にもそっちの筋の人かもしれない。
相手は何せ黒髪オールバックだ。
何てアパートに住み始めてしまったんだ。僕は自身のアパートの選択自体を疑い始めていた。


降伏だ。
ここは勇気ある撤退だ。

「わかりました。半年ですね。」

完全なるイエスマンに成り下がった僕はその場で半年契約した。

当然ながら彼は1階には住んでいなかったし、多分そっち系の人でもなかった。

「消防署の方から来ました」と消化器を売られるらしいが、なんならそれはまだ可愛いものである。本当に消防署の方角から来ているのだから嘘はついていないと言える絶妙な罪悪感がその言葉の間に垣間見える。

でも彼は違う。同じアパートの1階に住んでいると堂々と嘘をつききった。罪悪感なんてアリンコ程にもなく言い切った。

僕は営業をしていたことがあるからわかるのだがこんなに簡単に契約が取れることはあり得ない。
まず相手の信頼を得ることから始まり、時間をかけて人間関係を熟成させてから加えてコンペなんかを経た上で契約を勝ち取るのがセオリーだ。

彼は、黒髪のオールバックと、堂々と嘘をつき切るという胆力だけで、ものの5分で契約を勝ち取って行った。電光石火だ。
僕が営業部門の部長だったら、彼を昇進させているだろう。

案の定、翌日から配達されていく新聞は見る間に積み重なっていき、誰にも一回も読まれるこもなくゴミの日に出されることになった。

後日、知り合いに教えてもらったクーリングオフの術を発動したが、1階に住んでいるはずの黒髪オールバックからクレームは上がってくる事はなかった。

僕はまた1つ大人の階段を登った。




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