少年院卒が子育てする上で決めているルール
鼻からスイカを出して早数ヶ月が経った。
出産は聞いているより大変ではなかったけれど、時々息子を見て「こんな大きいものを押し出したのか」と自分に引くことがある。
押し出した自分ですら引くのだから、旦那やパートナーが立ち合いで妻を女として見られなくなる気持ちも分かる。
毎日彼にとっての正解を手探りしているが、正解など一生見つからないのだろうと思っている。
これから彼と過ごす20年の中で、私は私なりのルールを設けている。
今日はそんな話をつらつらと。
自信を持って「あなたの存在が私の誇り」と言い聞かせること
私を私として認め受け止めてくれたのは、祖母だけだった。
「どんなあなたも好きよ」という言葉は、当時の私の自信や安心感になったことをよく覚えている。
反対に、自分の母から許容された記憶はほとんどない。
長女だったこともあり怒られたり否定された記憶が強く、未だに意見が食い違うと私はその場から逃げることをやめられない。
何度訴えても「母親の私が絶対に正しい」という姿勢を変えなかった母と話し合う気が毛頭なく、早い段階で分かり合えない存在として分類してしまったのだろう。
だからこそ私は息子に、自尊心を尊重させられる存在でありたいと思う。
これから絶対に彼も悩み苦しみ、嫌な思いをする。
綺麗事だけでは生きられないのがこの世であり、上手くいかないことが大前提なのが人生だ。
サンタクロースの夢を見せるのが親の役目であるように、現実がどんなものか教えるのも親の役目ではないだろうか。
私は前にも言ったが、子ども相手に綺麗事のユートピアを見せるつもりはない。
それでも、幼い子どもには「帰れる場所」が必要だ。
どんなミスを犯して間違ったことをしても、自分を恥じるような選択をしても、どんな子にも帰れる場所が必要だろう。
それが私にとって祖母だったわけだが、私は彼にとってそんな場所でありたいと強く思う。
中出しして子どもを作ったのも、産み育てようと決めたのも親である私たちのエゴだ。
子どもは親を選んで産まれてくると言うが、そんな御伽話を信じて彼に私を親として認めさせるようなことはしたくない。
それでも私は彼を産んで育てようと決めたし、せっかく産まれたのだから、このクソみたいな世界を思い切り楽しんでほしいと思っている。
自由には責任が伴うことを親が肩代わりしない
こんなことを言っているが、社会というコミュニティーで暮らす意味はよく理解している。
息子がしたことの責任を放棄するつもりはないし、彼が成人するまで私は彼の尻拭いをする覚悟がある。
しかし、それもたった20年間の話だ。
人生を80年と考えたら残り60年、彼は自分で責任を負って生きていかなければならない。
だとしたら、幼いうちから責任を取るということがどんなことか教えておく必要があるだろう。
学校に行かなくても勉強をしなくても構わない。
宿題をやらずにゲームばかりしていても構わないし、好きにしたらいい。
だが、その責任を取るのは彼だ。
先生に謝るのは私ではないし、クラスの授業についていけず退屈を感じるのも私ではない。
それでも学校へ行かず勉強しないと決断したのであれば、その責任は彼が取ればいい。
人生を少しだけ長く生きている私の経験談を彼に伝えることはするが、強制することはしない。
後悔するのも人生のうちだし、逆に学校へ行かなくてよかったと感じる人生を彼は送るかもしれない。
そんなことまで親が干渉していたらキリがないと思うのだ。
あれこれ「人生をより良くするために」親が手出ししていたら、いつまでも彼は自分のことを自分で決められなくなってしまう。
ただ、耳がふたつで口がひとつなのは人の話をよく聞くためにあるのだということを彼も理解しておくべきだろう。
仕掛けるような真似をする卑怯者にはなるな
子どもが生まれてから、2ちゃんねるで嘆いている親のスレをよく見るようになった。
学校で息子が揉め事を起こしたとか、別の保護者にイチャモンつけられたとか、狭いコミュニティーの中で日々頭を抱えている親が多いようだ。
彼もきっとこれから先、友達や先生と喧嘩をするだろうし、憎んだり羨んだりする日も来るだろう。
たくさん傷付いて嫌な思いをして、時には死にたくなることもあるかもしれない。
それでも絶対に、仕掛けるような真似をする卑怯者になることは許さない。
いじめられたらいじめ返していい。
殴られたら殴り返していい。
嘘をつかれたら嘘をついて構わないし、裏切られたら裏切ればいい。
自分がされたことをそのまま返してやるのは多いに構わない。
だが絶対に、自分から仕掛けるような真似をしてはいけない。
弱いものいじめをする人間の根底にあるのは、自分への自信のなさだ。
誰かを痛めつけたり自分の方が上だと知らしめないと、自分に自信を持てないし誇りを感じることすらできない。
彼らはとても滑稽で醜い生き物である。
私は息子にそんな人間であってほしくないし、自分に自信が持てないならやるべきは他人を傷つけることではないことを知ってほしい。
この世には畜生の価値もないクソみたいな人間もたくさんいる。
人の不幸を心から喜び、他人を傷付けることに痛みも苦しみも感じない悪魔のような奴がウジャウジャいる。
だから常にお人好しでいるのはリスクの方が大きい。
やられたらやり返すことも時には必要だ。
しかし絶対になにがあっても、彼らと同じ土俵に立つことは許さない。
そんな醜い人間に成り下がるくらいなら、私が彼を痛めつけて同じ目に遭わせる。
経験しなければ分からない馬鹿なら、親が身を持って躾ることは虐待とは違うのではないだろうか。
優しさは強さの上に成立することを彼には知っていてほしい。
真面目に頑張るよりふざけて楽しんで
何事も一生懸命に取り組むことは必要だ。
中途半端になるくらいなら最初からやらない方がマシだし、手をつけた以上はやり抜かなければ意味はない。
大事なのは結果ではなく、やり抜いたという過程と事実だからだ。
しかし、真面目に頑張る必要はない。
いつだって肩の力を抜いて7割くらいの気持ちで取り組めばいい。
「これでダメなら死んじゃえばいいや」と死ぬ気もないのにそんなことを思いながら、ふざけて楽しんでいればいい。
死へ向かって生きているのだから、適当にね。
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