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人生を彩る「音」の話 その1

こんにちは、ひづきと申します。

少し思い立ったので、私の人生に欠かせない者のお話しを少しつづりたいと思います。

それは「音楽」です。


子どものころから

おそらく母の影響が非常に大きいです。
小さなころから家にCDコンポがおいてあり、母はそれでビートルズや尾崎豊、チェッカーズにB'zなど…様々なアーティストの音楽を聴いていました。
かく言う私も親にせがんでカセットテープを買ってもらい、そこにセーラームーンの美奈子ちゃんが歌う「恋人がサンタクロース」を録音したものをずっと聴いていた覚えがあります。
保育園のお遊戯会も好きで、聴くことも歌うことも楽しんでいました。

MDとの出会い

小学校に上がったころには、時代も進化していました。
カセットテープからMDへと記録媒体が変わっていたのです。
母が聴いていたアーティストの歌を覚えてしまい、自分から聴きたがるようになりました。
そこでMDプレイヤーを買ってもらい、CDから録音して音楽を持ち歩くようになり、
レンタルCDショップで好きなアニメ主題歌を借りてきてはMDに入れ…きちんとジャンルごとに分けていたので、MDの数もかさんでいきました。
何より、あのMDをはめるときのカシャっという音が大好きだったのです。
無駄に開け閉めして、「壊れるからやめなさい!」と怒られていたのも覚えています。

アニメが好きだったのは姉の影響です。
ゲーム、漫画などのサブカルチャーは一通り姉を通して知りました。
そんな中、中学校に上がる前後に2つの衝撃的な出来事が私を襲います。
襲うといってもカルチャーショックです。ほかの人にしてみれば大したことではありませんが、当時の私には大事件でした。

ひとつめ、吹奏楽との出会い

自宅近くにある進学先の中学校とは、小学生のころから交流がありました。
ある日その中学校の吹奏楽部が私たちの小学校を訪れ、体育館で演奏会を開いてくれたのです。
その音楽を聴いたことが、ひとつめの衝撃でした。
まず体育館に広がる爆発的な音。
大太鼓や低音楽器の重低音がおなかに響き、トランペットやクラリネットの音が耳をつんざきます。
当時の私には初めての経験で、とても驚いたことしか覚えていません。どんな、なんという曲だったかさえ。
それでも、いつも耳元でシャカシャカなっているイヤホンとは比べ物にならない音量を体感したのです。
それでいて統率されたメロディーたち、リズムたち。
それらは単なる「音」ではなく、まぎれもなく「音楽」でした。
私にはそれだけで十分でした。

音楽ってすごい、そう思うことには。

ふたつめ、ペルソナ3との出会い

吹奏楽との出会いが「感動」だとすると、こちらとの出会いは「憧れ」です。
ペルソナ3という作品はご存じでしょうか?
ご存じない方はビジュアルとイントロダクションだけでも調べていただきたい。
ここからはご存じであるという前提で話が進むことご了承ください。

姉がプレイしている横で、敵の弱点を覚え、マップを案内し、攻略本代わりになっていた私ですが、
本当にこの作品が大好きで仕方ありませんでした。
スタイリッシュで、都会的で、OPからキャラクターからBGMからUIから戦闘システムから…どこをとってもかっこよかったのです。
特に好きなのが、主人公の出で立ちでした。
首からかけたネックストラップ付のスティック型音楽プレイヤーに、耳かけ式のヘッドホン。
そのスタイルが何よりも印象に残ります。
小学生高学年~中学生の私にとっては彼がトレンドの最先端だったのです。

すぐに同じようなスティック型の音楽プレイヤーWalkmanを買ってもらい、
家族のPCを借りて音楽を取り込み、ヘッドホンでサントラを聞きまくりました。
このWalkmanはうっかり落として壊してしまうまで何年も使い込みました。
後々スティック型のWalkmanは生産されなくなってしまいましたが、
同じPCソフトを使えるので、音楽プレイヤーはWalkmanを使い続けています。(今は違うソフトに変わってしまいましたが。)
某Podには目もくれず(笑)。

吹奏楽とともに歩んだ学生時代

中学校では総勢60人以上の大所帯の吹奏楽部に入部しました。
体験入部したときにサックスに一目ぼれし、真っ先に希望しましたが…
さすが花形楽器、立候補者はとても多かったのです。
そんな中誰も選ばなかったパーカッション(いわゆる打楽器)。
「誰か行ってくれないかな…」という先輩の切実そうな言葉。
そうした空気にとてつもなく弱かった私は、同じクラスの友達と一緒にパーカッションへ入ることを決めました。
渋々、嫌々というほどではありませんが、あまり期待せずに選んだパートでした。

初めてやる練習はまずスティック(バチ)の持ち方から。
上から下に振り下ろし、跳ね返りをコントロールする。
これがなかなか難しく、先輩のように美しいフォームでできません。
しかもそれを一定のリズムでする。狂うことなくメトロノームのように。
とても精神力のいる練習でした。
今思うと、淡々と同じことをし続ける精神力と集中力はここで鍛えられたのかもしれません。

度々ある演奏会や、目標とされるコンクールでは楽器を任されます。
1年生のころは、タンバリンやトライアングルといった小物と呼ばれるものを掛け持ち、
2年生になると大太鼓や鍵盤楽器など華のあるものを任されることが増えていき、
3年生では一番カッコいいスネアドラムやドラムセット…と、
学年が上がるにつれて目立つ楽器へと昇格していくシステムでした。
いつか私もコンクールでスネアを、いや私は定期演奏会でドラムを…という風に憧れを糧に日々練習を重ねました。
基礎や楽器の技術は上達していき、順調に3年間パーカッションを勤め上げることができ、今でも私の貴重な体験になっています。

音楽には関係のない人間関係のトラブルや派閥争い、後輩の素行不良などいろいろ問題もありました。
ここでは語りませんが、それもいい経験になったと思っています。

商業高校に進学した私は、ここでも吹奏楽とパーカッションを続けました。
というか進学先に同じ中学出身の先輩が居たので逃げられなかったというのが大きかったです。
ここは中学とは違って、20人にも満たない少人数編成でした。
同じパートに10人近くいた環境とは打って変わって、パーカッションは2人だけ。
いかに少ない打楽器で曲を成立させるか、いかに二人で楽器を掛け持つかを必死に試行錯誤していました。
先輩が卒業してしまいついに一人だけになってしまってからは、潔くドラムセットだけで乗り切るという荒業。
できる曲も限られましたが、少人数ならではの経験も、今思えば楽しかったです。

たとえ部活仲間と仲が悪くても、副部長としての仕事が滞って怒られても、本分である学業に差し障っても、それでも吹奏楽が、パーカッションが好きでした。

でもある日、2年生の冬休みが明けたその日、学校に行けなくなりました。
繰り返される同学年内の衝突、副部長のプレッシャー、学業への影響、何もかもが重なった結果だと思います。
学校に行こうとしても、駅までたどり着けず、泣きながら家に帰りました。
大好きな音楽だけは辞めたくない。
その思いでなんとか3年生まで上がりましたが、いよいよ進路を決める時期と重なって激しくなった同学年内での対立が引き金となり、部活をやめる決意をしました。

吹奏楽を裏切った。音楽を裏切った。ただの人間関係なんかで。あれだけ大好きで、一生続けたいと思っていたのに。
自責の念ばかりが募り、つぶれそうになりました。
裏切りは悪。死ぬべきだ。
音楽を裏切った私は死ぬべきだ。
解放感の裏でずっとその思いは付きまといました。

おわりに

思ったより長くなってしまったので、一度ここで切ろうと思います。
学生時代に受けた影響はとても大きいですね。
今もいろんな思いが私の中でめぐり続けています。
気が向いたら その2 社会人編もつづります。
絶望感いっぱいで終わりますがご安心ください、私いま、生きてますので。(笑)
どれだけひどく裏切っても、音楽との仲はそう簡単に切らせてくれませんでした。
私を救ってくれたのもまた音楽なのです。
その話はまた改めて。
ひとまずここまで。
ここまで読んでいただいてありがとうございました。

それでは。

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