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諸賞流和:稽古2回目の所感と武道科学との関連で考えたこと
先日、諸賞流和の稽古の2回目に行ってきた。
前回に引き続き、小具足(座り技)の表の続きを稽古した。
前回は、前後左右の正座からの受身、小具足・表1本目・踏落、2本目・羽返を学んだ。
今回は、私が遠方で月一での稽古となり、稽古に毎週参加できないこと、そして格闘技の練習の前に諸賞流和の一人稽古をしていて、学んだ形についてある程度形を取れるようになっていたことで、小具足・表の3本目・水車、4本目・腕捫(うでひねり)を新たに学んだ。
小具足・表1~3本目は短刀を用いた攻防の形であるが、4本目からは完全に素手での形となっている。
1~3本目は、取(技を懸ける方)が打(技を懸けられる方)に対して短刀を抜いて金的を突くが、その短刀の突きを打に制されるところまでは共通している。
4本目の腕捫は、それまでと異なり向かい合ってではなく隣り合って正座している状態で、打に左腕と右腕それぞれを極められたところを、極められるすんでのところで自ら極められた腕の方に転がって反撃する形となっているが、左右で形が大きく異なる。
さらに腕捫では、表の段階の次の段階である「ほぐれ(手偏に解)」、そして「裏」の入門的な要素も表の形の中で部分的に修練する。
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全体系からみればまだまだほんの触り程度の形しか学んでいないが、いくつか分かったことがある。
まず、全ての技が豪快なパワープレイであるように見えるものの、実際は重心の移動や体(たい)を落とすこと、相手の体を利用して固まって動けなくなった体を利用して投げ飛ばすといった、力を入れずに投げ飛ばすことを要求されること。
また、形も広く応用の利く技の原形が抽出されており、それを五重に変化させる体系であるものの、1~3本目の形のように、原形の間にも共通する体捌きの要素があり、それらを修業者が自得していく=理論的修業が早期の上達のために必要であること。
そして、具体的な場所は失念してしまったが、武道理論から言えば
「柔の技が最も形を取りにくく、技の創出が難しい。かつすべての武道の種類の中で最高度の土台の強固さを要求される」
ということが挙げられているが、それについて体感として納得がいった。
というのも、柔の技の場合、身体の動かし方が自由であり、武器術のように武器がある種のモノサシというかある種の矯正具として用いることができないために、技の形を取ること自体が極めて難しく、さらに形が取れてもそれを技として仕上げる=自らの投げ技それ自体を名刀正宗の如き斬れ味を持たせるための繰り返しの技の練り込みには、より以上の熱心な繰り返しと正確さの意識が要求されるということである。
しかしながら、武道理論では言及されていない個別事情もあることも分かった。
諸賞流和の場合、土台の強靭さに関しては形そのものに土台を強化する鍛練が織り込まれていることから、形に習熟することそれ自体が非常に強烈な土台の修練になっている。
事実を提示すれば、最初は小具足という座り技の形から学ぶこと。そして正座から膝立ち状態で体捌きを行い、上体を脱力した状態にするために土台の部分を柔軟かつ強靭に動かす必要があることである。
特に、股関節と仙腸関節、足首(脛)の動きによって体捌きを行うものではないか?という感覚であり、さらに正座している時以外は必ず足の指を立てる=足の甲を地面に付けない状態でいることが要求され、ほぼ膝行に近い状態で技をかけあうことから、1時間しないうちに、形の本数でいえば10回も繰り返さないうちに膝が笑って息が上がることになる(まだ初心者ということもある。というのも、黒帯の修業者は目に見える形では疲れてはいないから)。
さらに、最後の残心で勝切の姿勢になるが、その時にも起き上がって勝切の姿勢になるのも土台に「くる」ものがあり、何度か立ち上がることができなかった。
兵法二天一流玄信派の理論に基づく土台を取り出しての修練に加えて格闘技と筋トレで人間体の素材自体の鍛錬をしていた私でも相当キツイものがあったため、諸賞流和の形の修練をするだけでとりわけ土台を取り出して特別に修練する必要はないともいえる(これは歴代の諸賞流和の継承者の工夫の結晶であると考えている)。
しかしより以上の上達を望むならば、やはり理論に則って独自に土台の強固さと柔軟性、それぞれと両者の統合を為すための修練を行う必要があると感じている。
いずれ、表だけではあっても全体系を学んでから改めてまとめてみたい。