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京八流と関東七流:武士でなかった源義経と、武士として育った坂東武者の違いから読み解く

流祖・武州玄信公の打ち立てた二天一流はもともと円明流という名前であり、さらに流祖の名乗っていた円明流は、流祖の師父であった新免無二の当理流から二刀流専門の剣術流派として発展させたものであり、さらに当理流は京八流の一派である円明流から分派した流派でした。

なので、大元の円明流は京八流と呼ばれる括りの諸流の一つであり、京八流は源義経が鞍馬山で天狗から学んだ兵法と鬼一法眼から学んだ『六韜・三略』を基にして、鞍馬山の八人の僧に伝えたものと言われています。

一方、京八流と双璧をなす兵法の括りに関東七流があります。
これは、武神である建御雷尊を祀っている鹿島・香取神宮の神官たちによって伝承、研究されてきた流派です。

流派の特徴としては、京八流は伝承された場所が京都である関係から、市街地戦、特に屋内での戦いに対応するために小太刀術を中心とした技法が発展しました。

一方関東七流は広大な坂東平野が主戦場であり、武芸十八般と言える各種武芸が均等に発展してきました。

この違いは私の師匠である宮田先生の著作に詳しいですが、かいつまんでまとめると以上になります。

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また、最近の源平合戦、特に源義経と鎌倉武士について極めて優れた研究が公刊されており、そこからさらにインスピレーションを得ました。

それは何かといいますと、そもそも武士というのは「どういう育ち」をしてきた人間なのか?ということから、源義経と坂東武者一般の違いを論じている点です。

源平合戦の有名なエピソードの一つに、屋島の戦いで源義経が弓を流されてしまい、戦闘中にもかかわらず自分の弓を必死に拾おうとして部下から「弓なんて代わりはいくらでもあるんだから放っておけばよろしいのでは?」と言われたのに対して源義経が「源氏の大将がこんな弱い弓を使っていると敵に知られたくなかった」と答える場面です。

そもそも源義経は、平清盛によって処刑される寸前のところで偶然のことから助命され「武士になって平家への報復を企てないように」僧侶となるべく鞍馬山に預けられることになりました。

当時の武士は「弓馬の道」を嗜む職能戦士であり、そのために幼い頃から三人張り以上の強弓を引けるように鍛練を重ねていました(実際、源義経の部下である那須与一などは五人張りの強弓を用いていました)。

なので、源義経は助命された経緯から、幼少期に武士としての鍛錬を積まないように監視されて育ったのであり、科学的上達論も体育理論も無い当時としては、幼少期のこのハンデは「一般的には」決定的なものとなる「はず」でした。

それが覆ったのは、鬼一法眼による『六韜・三略』といった知略を用いる兵法の学びであり、また武士でないものの護身のために武を身につける必要のあった鞍馬の天狗=修験者の教育であったと考えられます。

後に壇之浦の戦いで「義経の八艘飛び」として人口に膾炙する身軽な跳躍力の土台となった鞍馬山での成長する夏草を飛び越える鍛練のエピソード、そして剛力の僧兵であった武蔵坊弁慶の薙刀を舞うような身軽さであしらい勝利したエピソードからも分かるとおり、源義経は身軽さを生かした技によってパワーを誇る相手を制圧するという、当時の一般の武士たちには異星人と映るほどの異色の強さを身につけました。

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ここで、今一度、京八流の特徴を思い出してみましょう。

京八流は「源義経を原点とする」「小太刀術を中心に発展した流派」であったということです。

京都という戦場の特徴から小太刀術が発達したのは確かですが、さらにその原点から小太刀術を中心とした技能であったという可能性も非常に高いです。

というのも、先述の源義経の生い立ちとその武の内実から分かるとおり、源義経は当時の武士として一般的だった強弓を引けるような力強さを身につける鍛練をさせてもらえなかった代わりに、身軽さを生かした強さを身につけました。

その特徴から、源義経の戦い方と小太刀術は非常に相性の良い組み合わせであり(一般的に太刀や薙刀よりも小太刀の方が力が要らないから)、八人の僧に兵法を伝授した時点で小太刀術を中心とした術技であった可能性が非常に高いです。

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また、京八流と関東七流のその後の発展と、源義経と坂東武者の政治的なつながりもかなり強いと思います。

というのも、京八流の流れを汲む古武道の流派は二天一流以外にもいくつかあるものの極めてマイナーな流派であり、少なくとも古武道の主流をなす流派とはなりませんでした(京八流の総帥であった吉岡流は二天一流(当時は円明流)の流祖との三度の決闘に敗れた後決定的に衰退し、その後まもなく途絶えています)。

一方で、古武道の主流となった一刀流や新陰流系統の流派は全て関東七流を原点とする流派です(示現流も元は関東七流の一派)。

これは、鎌倉殿=源頼朝と対立して滅ぼされた源義経と、鎌倉殿に仕えた=鎌倉殿を推戴して武者の世を築いた坂東武者のその後の政治的な運命の違いと軌を一にしているのは決して偶然ではないでしょう。

幸いなことに、二天一流の元となった円明流は、継承者であった岡本三郎義次から岡本家の家伝兵法となって、赤松一族の末裔を始めとした播州・作州一円の血族・一族が伝承したということから、そういった政治的影響をあまり受けずに伝承されてきたことが大きいです(ある意味で『バガボンド』での柳生石舟斎の言っていた「石の舟はついに浮かばず」というのに近いです)。

そういう幸運もあり、さらに円明流は宮本武蔵玄信=武州玄信公という日本武道史上最高の実力と知名度を持つ兵法者を擁する二天一流が、京八流の流れを汲む流派としては(二天一流から派生した傍流である鉄人流や武蔵流なども含めて)最大規模の流派として残ることになりました。

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そして現存する二天一流の剣技からも、源義経と京八流の関係の影響を垣間見ることができると考えています。

というのも、二天一流の剣技は当然ながらその名の通り二刀流ですが、二天一流の二刀流の術技はもともとは小太刀術から派生したものであり、そのため腕力で振り回すのではなく、体幹を用いた足腰と胴体の力で二刀を駆使するものです。

また、稽古に使う木刀も真剣に似せて非常に重ね(刀身の厚み)が薄く、それによって軽くできています(理由はいろいろありますがここでは割愛)。

そのため、力のない人でも剣を振ることができるようになっており、逆に力を入れない方がより深く鋭く強く斬ることができるという術技になっています(木刀はもちろん、真剣の二刀流でもそう)。

このような特徴を見ていきますと、身軽さを以って剛力を誇るパワーを制圧する戦い方をした源義経の戦い方と全くの無関係であったとは逆に考えづらいでしょう。

流祖・武州玄信公は「青竹の節を握りつぶした」というエピソードが伝わるほどの剛力であり、当時としては大柄な身の丈6尺(約180cm)の大男であったと言われていますが、同時に「飛んでいる蠅の羽を箸で毟ることができた」と言われるほどに非常に精妙な術技をも誇っていました。

なので、身体的特徴は遺伝によるものですが、円明流~二天一流の術技としては一貫して細やかで精妙な技、こちらが非力でもパワーを誇る敵を制圧できる技を中心に術技が組み立てられ、伝承されてきました。

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このように、歴史的経緯からも、京八流と関東七流の違いから術技を考察していくと、なぜそうなのか?ということが見えるようになります。

そこが見えれば、相手の術技がだいたいどのようなものなのか?ということのあたりを付けることもできますし、当然ながら初見の技であってもだいたい相手が何をしてくるのかを読めるようにもなるでしょう。

学問的に言えば、全体像を把握するのに必要なのは「原点かつ歴史的発展過程」であり、それが分かれば全体像を把握できます。

また、自分の修業としても、私自身が腕の力が弱いので、その自分の特性と二天一流の剣技の歴史的形態を合致させていきたいです。

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