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格闘技の練習、そして空手の打撃と柔術の当身について
今日も格闘技の練習に参加してきました。
今日はグラップリングのみの練習になりましたが(私の体力がもたなかったため)、いままで1ラウンド2分でやっていたのを3分でやりました。
結果、酸欠でしばらく起き上がれませんでした。
ただ、当初は吐いた上に全身の穴という穴から汁を垂れ流していたのですが、今日は吐き気を催すことなく、酸欠で視界が白くなるくらいで済みましたので、着実に体力は付いてきています。
今日は立った状態からの組み討ちと、倒れた相手を攻める状態からスタートのそれぞれ2種類行いました。
立ち技は、レスリングの技も含めて相手を倒すための方法をいくつか教えてもらい、寝技では肘を取りに行った時に仕損じた時の転換が必要と教えられ、さらに相手の足でのロックを外す方法も教わりました。
それはともかく、一連のグラップリングの練習は、どんな筋トレよりも全身を鍛えるものだと言われました。
その心は、筋トレは自分一人でやるので無意識レベルで「加減」してしまうが、グラップリングは攻めてくる相手がいるのでいやおうなしに動かなければならず、それゆえ体力がスッカラカンになっても気力を絞り尽くして自分を極限まで追い込むことができる(しなければならない)から、とのことでした。
攻めてくる相手がいるため、立つことさえままならない状態でも戦わなければならず(攻撃はしなくても防御や逃走はしなければならない)、いやおうなしに戦闘行動を取らざるを得ず、体力が払底していても、気力で最後の力を絞り尽くさなければならない状態に追い込まれます。
そのため、サウナに10分入っている時よりも汗が凄まじく、今日は汗だけでなく口を閉じることができなくなってよだれも垂れ流しになるくらいでした。
フランス外人部隊の兵士だった日本人が言っていたことですが「精神的訓練を含まない肉体的訓練は軍事訓練としては無意味だ」という意味が分かった気がします。
死力を尽くすとは精魂尽き果てて動けなくなってからが勝負で、そこからどれだけ力を振り絞って動けるかが勝負を、そして生死を分かつということです。
本来的に命の懸かってない格闘技でも下手したら死ぬ一歩手前まで行きますので、況や命を懸けた戦闘訓練においておや、です。
なのでジムでの筋トレも無意味とまでは言いませんが、最も効率的かつ効果的に素材としての人間体を鍛えることができるのは格闘の形式においてであり、筋トレはあくまでも補助的な位置付けであって、主従を逆転させてはならないということも嫌というほど体で理解できました。
そのため、最近は筋トレしてもだんだん筋肉痛が起きなくなったのですが、今日のグラップリングをやったら特に体幹部分がすでに筋肉痛です。
また、最初はグラップリングが苦しかったのもあって精神的忌避感がありましたが、最近はあまり感情を動かさずに臨めるようになりました。
こういうことを考えますと、アメリカ海兵隊での新兵の教練において、戦闘訓練の総時間のおよそ半分を格闘戦の訓練に費やす意味、そしてその根底にあるアメリカ海兵隊の戦闘ドクトリンにおいて「必勝の信念を把持し、精神力の優越をもって行う銃剣突撃こそ、海兵隊の勝利の基礎である」と書かれていることの内実も見えてきました。
(ちなみに、アメリカ海兵隊のドクトリンには日露戦争後の帝国陸軍の歩兵操典と全く同じことが書かれていますが、帝国陸軍の精神力の強調を非合理的と批判している者が、同じ論理でアメリカ海兵隊を批判したという話は寡聞にして知りません)
それはともかく、今日も七転八倒ではありましたが、こうして日々限界を超えていくことで少しずつ鍛えられていることを実感しています。
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人間体の素材の鍛錬はかくの如しでしたが、体術の創出に際して一つ疑問が浮かびました。
それがタイトルにあるとおり、空手の打撃技と古流柔術における当身は構造的に何が違うのか?ということです。
両者とも経験していないので実際のところは分かりませんが、一つ推論できるのは両者ともに一撃必殺を旨とするものの、その一撃必殺の内実が異なるように思います。
それは空手の打撃とは日常の護身そしてその延長線上での決闘での一撃必殺であり、古流柔術における一撃必殺とは甲冑を纏っている戦場での一撃必殺=敵の首を掻き斬るまでの組み討ちにおける一撃必殺ではないか?ということです。
であれば必然的に技の構造が大きく異なるように思います。
空手の打撃は突き技、蹴り技において一拳必殺で敵を仕留めることにあります。
別言すれば突き、蹴りが全てであり、突きや蹴りが剣術における「一つの太刀」レベルでの技の全てであるということです。
対する柔術は、最終的には敵の首を取る一連の流れにおける一撃必殺であり、投げ技、締め技の中における崩しとしての当身と言えるように思います。
柔術における一撃必殺とは、投げたり絞めたりすることによって組み討ちを制するという意味でのものであり、当身が裏当てと呼ばれ、甲冑を貫通して相手を殺傷するほどの威力だとしても、首を取るために組み討ちを制するという流れの中の一部としての位置付けであるということではないかと考えます。
どちらが良いかという話ではなく、そもそも武技が形成された歴史的前提が異なりますので比べようのない話ではありますが、兵法二天一流・武道剣術を「戦場の剣術」として位置付け、体術も「戦場の剣術」から派生した技術体系と位置付けていることから、私は空手ではなく古流柔術を学ぶことにしました。
もちろん機会があれば空手も学んでみたいですが、どこまでも武道剣術の体系としての統一性を持たせる必要がありますので、剣術と接続しやすく、甲冑での戦闘も前提としている古流柔術を学ぼうと考えた次第です。
また、古流柔術であればいわゆる「合気」的要素も工夫しやすいと思いますので(もともと合気道自体が大東流合気柔術という古流柔術から派生した関節技を中心に技をまとめた体系)、そういう点からも古流柔術を修業かつ研究して、否定の否定的に体術へと止揚(Aufheben)していく過程の、その媒介としようと考えました。
とはいえ、まだ推論の段階ですので、実際にやってみてどういうものかを体で識りながら研究していきます。