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『鍼灸いかに学ぶべきか』を総括する〜二重の過程性をもっての学びの必要性〜
今日から22日間、ほぼ自身の自由時間という時を持てる。それも転職先が決まってのであるから、この先もしかしたら一生ないかもしれない22日間の余暇である。無駄にせぬようにと思う。
そこで、noteではその余暇を利用して、現在までの自身の理論的な学びの総括をしたい。(できれば、その統括へと行ければいいのだが......)
具体的には『鍼灸如何に学ぶべきか』(として10年近くにわたってgooブログで書いたこと)の総括と学問上のいくつかの概念についての、自身の理解を書いておきたい、と思う。
さて、まずは『鍼灸如何に学ぶべきか』の総括から。
『鍼灸如何に学ぶべきか』は、10年ほど前に鍼灸学校へ入学して、鍼灸・東洋医学の学びを始めるにあたって、その学びを実りあるものにしたいとの思いから、日々学んだことをその事実とともに、それは一体どういうことなのか ? 自身はそれをどう学んでいけば良いのか ?等々ということを、書いたものである。
それと共に、東洋医学という観念論的体系を学んでいって、観念論に絡め取られてしまって、観念論と唯物論の二刀流になって行ってしまわないためにの、その怖さから(中学生時代に唯物論ということを知って以来、唯物論者たらんと努力してきている)、自身を救ってくれるものとしてのであった。
具体的には、鍼灸の観念論的な説明を唯物論的に捉え返すならば如何なることになるのか?ということの、それはやがては唯物論的な説明を観念論的に捉え返すならばいかなることになるのか ? ということとの二重性、二重の過程へとなっていく、書くということであった。
自身のその学びのスタートは、鍼灸学校入学のための面接で、試験官である教員から、「入学後を何を学びたいのか ? 」と問われ、正直に自身の志、「観念論的な体系である鍼灸・東洋医学を唯物論的に捉え返して、科学的鍼灸論を構築したい」を述べたところ、顔色を変えての、「鍼灸と科学は相容れない、それは無駄なことだからやめた方が良い」との発言があった。自身の思いとしては 「?」「なぜにここまで反対されるのか ? 」「そんなものやってみなければわからないではないか!」であったけれども、入学のための面接であったので、入学させてもらえないことには何も始まらないから、「そういうものなのですね、わかりました。」と引き下がったものの...…というものであったのだが......。
ここは、入学後に随分と経ってから知ったことに、「経絡治療」という一派がかつて存在して(昭和初期頃)に世の中の科学化という流れに呼応して、鍼灸の科学化ということに取り組んだ、それも唯物弁証法の適用によって!という歴史的事実が存在し、それなりの成果があったものの(自身の入学時に全面的に改訂されて、中医学のパクリ、丸写しとも思える内容になってしまった『新版 東洋医学概論』の前の版である『東洋医学概論』(1993年5月20日第1版)の内容は、経絡治療の影響が色濃くであった。)、それも今は昔で、それを理論的に継承する人も存在せず、の当時であったからの、「科学的な鍼灸論」という言葉に対しての、教員の皆さんの強い拒否反応であったのだ、と。
そうは言うものの、鍼灸の実力はほぼゼロに等しいものであったので、特に実技に関しては、心を無にして( ? )熱心に学んでいった。
ただし、その理論的説明については、「?」と思ったことは迷わず、「なぜ ?」 と教員に問うことを常としていたので、教員からすれば困った生徒ということになっていたかもしれない。
例えば、経絡を使っての鍼の実技で、「経絡と臓腑が関係あるというのはどうしてなのでしょうか ?そこはどう説明されるのでしょうか ? 」との質問に対しては、「そこを疑ったら鍼灸は成り立たない!それは疑うべきではない!!」と顔色を変えての叱責の答えがあったことを今でも時々思い出す。
以上、要するに、自身の鍼灸の学びは、科学的鍼灸論の構築を志してのものであり、まずは実技の習得と共にその実技の説明(ほとんどの場合、観念論的説明)を、「唯物論的にはどういうことなのか ? 」と捉え返すという作業であり、そこからやがては、観念論的説明から唯物論的説明へという努力だけではなく、唯物論的な説明を観念論的に説明すればいかなることになるのか ?という捉え返しを行うということの、二重の過程性をもっての学びとなっていった、ということである。
ここの発想は、南郷継正からの学びであり、あるいはトマス・アクィナスの二重真理の問題からの学びでもある...…そして何よりも、そのように学ばなければ、鍼灸国家試験に合格することが難しいだろうという現実的な必要性によるものあった。)
その、観念論的鍼灸論から唯物論的鍼灸論へ唯物論的鍼灸論から観念論的鍼灸論への二重の過程をもっての学びの結果として、唯物論的=科学的鍼灸論の構築と共に観念論的鍼灸論をもより見事なものとして、完成させるための努力が、自身の、「鍼灸如何に学ぶべきか」の答えということになる。
今回の転職先では、鍼灸治療の機会が格段に増える予定である。引き続き、科学的鍼灸論の構築への努力をと思う。
読み返してみると、話が跳んでいたり、繋がらなかったり、という部分はあるのだけれど、結論部分については、全くそのとおりと思える。機会があればまた改めて、と思う。