AV禁止と表現の自由には

エロにおける表現の自由の抑圧が始まったようである。もっとも、表現規制側にしてみれば邪悪なる男たちに対して正義の鉄槌を落としてもう「ギャフン」(死語)と言わせたいだけで、男女平等を目指しているというつもりなのだろうと思う。
こういう正義の左派が勘違いしているのは彼ら左派は日本では政権に関係していないことであろう。彼らの一部は国会議員であろうけれど、政権には属していないので単なる批判者に過ぎない。一方で政権側の人は本来は表現規制が大好きである。自民党に表現の自由派が居場所を作ったから勘違いする人もいるが、保守派は本来、チャラチャラとした表現など大嫌いである。「若者がそんなエロ漫画にうつつを抜かしている暇があれば勉強しろ!そうでなければ自衛隊にでも行って根性を叩き直してもらえ!」と言いたい気分で一杯であろう。

私も本来の保守の部分ではそう言いたいわけである。けれども、日本の文化として新憲法の特徴である表現の自由を尊重するために必死で口を閉じなければならないということである。

もちろん保守の考えでは男はエロにうつつを抜かさずにしっかりと家庭を持ち昭和の時代の厚生省の標準家庭のように一姫二太郎、家族四人をしっかり食わせて、妻は良妻賢母として家事育児をしっかり行なって次代を育ててゆくということになる。
これは今、フェミニストたちがエロ漫画よりも嫌悪している家父長制の姿ということになるだろう。つまりはフェミニストたちは家父長制を滅し去ったと確信したために次のターゲットとしてエロを狙ったということであろう。
男は既に長ではないが、女性を養うマシンとして、その上に家事育児を妻の監督下で担う貴重な労働力である。そういう労働機械である男をエロなどに浪費させてはいけないわけである。競走馬が目に覆いをするように全ての欲望を諦めさせ、ただ女性の命令のもと働き続けるメンテナンスフリーのロボットに仕立て上げようという野望があるということかもしれない。

既に厚生省は労働省と合併して厚生労働省ー厚労省になっているのである。昭和時代のモデル家族はもう存在しない。与党の高齢の議員たちはかつての厚生省標準家族の復活を目論んでいるかもしれないが、フェミニストならば「多様性」という言葉でそういう団塊の世代以前の妄念を破壊することは簡単であろう。

フェミニズムにとってみればその先がどうであろうと構わないわけである。責任は全部男にある。うまくいけば女性の手柄であり、失敗すれば男が無能だったからと言えばいいわけである。

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