多様性と寛容、そして不寛容
ベラルーシ人、涙目で「自国が恥ずかしくウクライナの方に申し訳ない」…大使館前で抗議https://t.co/gTorD1B9Dj#社会
— 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) March 4, 2022
この人たちの気持ちはわかる。
ロシア人だって反戦デモしている人もいるわけで、先日など独ソ戦を経験した生き残りのおばあちゃんが反戦デモで捕まっていたくらいである。
反戦デモをするおばあちゃんはレニングラード包囲網の生存者
— ひろっぺ@内調的マスク&手洗い&うがい (@hiroppe3rd) March 3, 2022
レニングラード包囲網とは、独逸軍によるインフラ(電気ガス水道)施設の爆撃(焦土)によって100万人の餓死者を出した事件
国際社会からの制裁を受けてロシア市民、徐々に不満がたまってきている模様。 https://t.co/snEFyHHXa6
ウクライナ人だけでなくベラルーシの人もロシアの人も色々な考えの人がいるので十把一絡げにしてはいけないのである。これが多様性である。仮に内心ではプーチンを支持する人がいても、その人がウクライナ人を見るや否や暴れ出したりしなければその内心は自由である。これが寛容の精神ということである。
もちろん破壊工作などが現実に起きて工作員を見つけなければならないような場合は別かもしれないけれども。
こういう寛容の精神の下でも、流石にロシアとベラルーシの選手たちは「平和の祭典」から締め出されたようである。これは本当に不幸なことと言えるだろう。選手に罪はない。けれどもあれだけ暴力を恣にしている国に対する反感は相当強くなっているということであろう。パラリンピック委員会は当初、中立選手として参加を認めるという決定をしていたのである。それが1日も経たないうちに締め出しの決定を行わざるを得なかったのである。
平和の祭典には戦争をしている国は参加できないということであろう。