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表現者であるならば

「あれは『善い人』にしか作れませんよね」

そう評されて、ギクリとした。

たかが5分の短い枠。高校生たちの熱量をそのままに詰め込んだ文化祭前夜の生中継。ルーキーズの安仁屋や新庄が「シャー!」と叫ぶような、狂った騒ぎっぷり。

この熱量がわたしは大好きだった。

「青春は密だ」ということを思い出すような現場を切り取れて、「面白い中継だった」と言ってもらえて、ちょっとホクホクしていた直後のこと。

「僕だったらあの狂気のような熱量をいじり倒します。疑いを持って作っちゃうと思うんです。それがないのがすごいですよね……その場を全肯定するというか」

後輩にも丁寧な言葉で語る、数個上の先輩(企画力の高さゆえに天才と呼ばれる)は、少しも悪気はなく、そう感想を述べた。

ギクリとした。

自分が大事にしていた眼差しに対して問いを突きつけられたというか。「相手を疑わない」ことの甘さを自覚させられたというか。

大事にしていた価値観が揺らいだ気がして、困惑した。

「もっとワガママになっていいと思うんだよね」

また別の日に、20近く上の先輩から飲み会で言われた。

低姿勢で振る舞うことがデフォルトになっているわたし。でもここは、馴れ合いではなければ、アットホームでもない。天才がいて、努力がある、シビアで本気で優しくない職人の世界。低姿勢な立ち回りが求められていないのは薄々感じていたのだけれど。

別にわたしもいい子を演じているわけではない。ふつふつとしたパワーも、悔しい気持ちもちゃんとある。ただ、それが怒りや文句になることはない。ましてや他者に向かっていくことはない。何か不都合があれば、まず自分に原因を探して、どうにかしてしまう。

そう書いてきて、はたと気づく。

先輩たちが「善い人」や「ワガママさが足りない」という言葉で評したのは人間性の否定ではなく、わたしが「表現者であるならば」という前提を共有した上での評価だったのではないか。

つまり「表現者であるならば『問い』を投げかけよ」ということではないか。

信じることだけを是としたり、ふつふつとした思いを解放せずに自分に向けるのでは、それは自己完結の範疇であって、表現者ではない。

相手や、社会や、表現に問いを投げかける。

それが必ずしも怒りや嫌悪である必要はなくて。

でもそのままカメラを入れるだけ、自分で反省するだけでは、表現者ではないぞということを彼らは問いかけてくれたのかもしれないな。

とはいえ、表現者だと自認することすら憚られる小心者だけど。そこは覚悟の問題かなあ。

ひよっこディレクター、浮き沈み万歳で頑張っています。

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