わからないを共有する。
少し前のことだけど、9月の終わりに、高校時代の友人と、少し顔見知りの先輩たちとが上演した演劇を観に行った。文化の秋ですね。
もともと観に行くつもりではなく、ただ取材を半ば頼まれる形で行ったのだけど。
わさわさが止まらない。
これを今のうちに言語化しなきゃいけない。そんな気持ちに駆られて、必死に書き留めています、カタカタ。秋の夜長だなあ〜。(時差があります、今もう11月だあ……笑)
* * *
舞台は、数年後の未来のようで今のような、そんな時代。憲法改正の国民投票が迫った東京、ゆるやかに、何かを思いながら学生たちが集う、「ほしぞらキャンプ」。
起承転結もとりとめもない会話の重なり合いと、間の悪い沈黙が作り出す気まずい空間が流れて行く。ひっそりと夜が更けていく。
ただそれだけの会話劇。
演劇のなんたるかは知らないけれど、多重会話や共鳴するモノローグ、劇か現実かわからなくなるような現代演劇的な演出方法は、迫力と気だるさの両立のようで、ただただ「すごー」という感想を抱いた。
そして何より、そこに登場する人たちが、怖いくらいに、今の若者だった。と、私は思った。
「憲法改正を呼びかける選挙カーが通ってさ」「え、選挙じゃなくない、国民投票」「じゃああれ何、投票カー?」「宣伝カー?」「宣伝カー?」
「若者も関心を持てとか言われるけど、ちょっと厳しいと言うか」「憲法とか、なんか関係あるのかなあ俺に」「こんな急に賛成反対で決めちゃうのはよくないかなって私は思うけど…」
否応なく時代に巻き込まれる若者たちだが、「憲法改正の国民投票」と言う設定は、何か不気味なものさえ感じてしまう。
脚本演出を手がけた先輩は、「若者がこんなにも社会問題に関心がない状況が不思議だなあと思って」と、この背景設定の理由を、後日の取材で語っていた。
不思議かあ、、。
また、心がわさわさした。
なんで皆こんなに社会問題に関心がないのかな、という正義感溢れるカッコつけた気持ちと
忙しない日々が楽しくて難しいこと考えてらんねえ、という正直っぽい気持ちと
2つの気持ちがバトルするでもなく、私の心の中で寄り添っている気分だから。
そんな相反する気持ちが、登場人物のぬるぬるとした会話や言動と、急き立てるようなモノローグとに落とし込んであって、リアルだなあと思った。
「中学とか高校のときとかよく思ってたのは、急に地震、の話とかされても?え、突然なんなん?って感じがすごいなーって。亡くなった人の数も、行方不明の人の数も、仮設住宅の数もぜんぜん知らないし。例えば。何が復興したっていうかしたことになってるのかも知らないし。」
なんて言ってみたり、
「この頃のわたしたち、何を頼りに生きていけばいいのか、わからなかった。わたしは何も考えない。何も感じない。ここは息苦しい。ここは息苦しいけれど、ここじゃないどこか、なんてそんな場所はない。」
なんて言ってみたり。
SNS上の鬱々とした言論にも重なって見えて、舞台の上だけじゃないよなあと、思った。不気味さを拡張させて、舞台に表現させた感じ。かなあ。
* * *
こんな曖昧なわたしの言葉も、
ぬるぬるとした劇中の会話も、
いいとか悪いとかの価値判断はいったん置いといて、ゆるい時代だなあと思うのです。
みんな優しいしね。
イヤとかそういうことははっきり言う前に、その場をその人をその状況を避けていくしね。
きっと、みんな、わからないのだと思うの。
既存の価値観がグラグラとしていて、自由と多様性の時代、らしいし。
SNSとかAIとか、第5次産業革命の最中で激動の時代、らしいし。
よくわからないのに意見を求められても、そりゃ悩んではぐらかすしかないし、興味のないポーズとか、関係ない素振りするしかないじゃん。たぶん。
大人だってわからないのだと思うの。
でも大人は、その都度、決めなきゃいけない。方向を定めなきゃいけない。逃げたりはぐらかしたりできない。
だから、その分、わからないって言えるのは、若者の特権なのかなあって思いました。
わからないことを正直に、わからないって叫んでみる。
そうしたら誰が、ちょっとしたヒントを落としてくれるかもしれないから。
わからないことを分かち合えば、意味のある悩みや議論に繋がるかもしれないから。
そういう意味であの劇は、たとえ狭い範囲だったとしても、わからないよね、を共有する空間だった。
別に知ってることとか、わかったつもりのことを発しなくても、わからないを共有したい。
それって今のうちしか出来ないことだと思うから。ね。
ちなみに劇のタイトルは、
「明けない夜があったとして」
2019年の秋、令和元年の秋、そんな感じ。
ふふふ。
そして、明日ハタチになる、10代最後の日が、
おわり。