真の天皇陵が見学できる!②~岩屋山古墳と牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)
真の天皇陵が見学できる!と記しているが、何故そう言えるのか?前回①では岩屋山古墳の石室の素晴らしさを紹介した。それは全国でも他に例を見ない最高級石室であるからだ。つまり最高権力者の墓⇒天皇陵か同等クラスという結論になり、候補として斉明天皇(女帝)や吉備姫王(女性)が挙げられている。さて、②では岩屋山古墳から徒歩約10分で見学でき世界遺産の構成資産となっている牽牛子塚古墳に向かうことにしよう。
岩屋山古墳から北西に向かうこと約15分、その空間は突然現れた。遠方から見るとまるで白色のUFOが降臨しているかのようである。牽牛子塚(けんごしつか)古墳だ!遊歩道は健常者用の階段と、車椅子の方でも見学できるようにバリアフリーロードとの併用施設となっており、細かな配慮が伺えて気持ち良い空間が演出されている。余談であるが、この牽牛子(けんごし)とは、アサガオの別名である牽牛花(けんぎゅうか)に由来するという。その名の如く、この古墳はアサガオ⇒多角形⇒八角形であることが、発掘調査から立証された(下、発掘調査現場写真)まさに”名は体を表している!”のだ!
ようやく古墳のある場所に到達したところで、八角形の異様な構造物が現れた。表面は石川県小松市産の滝ケ原石(凝灰岩)をブロック状に積み上げている。早くから古墳の盛土部分は削り取られ、無残にも二部屋部分が開口している状況であった。つまり暴かれていた古墳だったのだ。剥き出しとなった石室(石槨)は、ひとつの巨大な石材の中を刳り貫いて、二つの部屋をつくり床面には棺の台まで完備している。完全に当初から二人用の空間であることがわかる。一塊の凝灰岩石材の重量は30t以上で、産地は大阪府と奈良県の県境にそびえる二上山西方付近であるという。この場所から何と約17㎞の距離を運んだのだ。権力者のなせる業!大デモンストレーションであったといえる。
実はこの古墳、古くから斉明(さいめい)天皇の墓と言われてきた。そこで今一度、文献(伝承)をおさらいすることで、一層、事実が面白くなるので記しておこう。
『日本書紀』には、
①斉明四年(658)5月:孫の建王(たけるのみこ)8歳で死去。斉明天皇、大変悲しみ、私の死後は必ず二人を合葬するよう、詔を下す。
②斉明七年(661)7月24日:斉明天皇崩御(ほうぎょ)。
③天智二年(663)8月:白村江の戦で官軍大敗。百済滅亡。日本に向かう。
④天智四年(665)2月22日:間人(はしひと)皇女薨御(こうきょ)。
⑤天智六年(667)2月27日:斉明天皇と娘の孝徳天皇皇后(間人皇女)とを小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した。この日、斉明天皇孫の大田皇女(おおたのひめみこ・天智天皇娘、大海人皇子妃)を陵の前に葬った。⇒*【これらの墓を築造した主は中大兄皇子である。】
時系列で記したが、流れは理解されたであろうか。白村江の戦という大戦の前後に、慌ただしい皇族の死亡記事が並ぶのである。この古墳は、特異な石室構造から当初から二人の合葬用であること、それが斉明天皇と間人皇女のものであれば、661年から667年までの6年間の間に造営されたものと推定される。さらに特筆すべき大発見があった。何と、牽牛子塚古墳の前から古墳が発見されたのである!
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?