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琉球芸能の元祖~玉城朝薫(邊土名家)の墓(Tamagusuku chokun)

 玉城朝薫(1684~1734)については沖縄の歌舞劇「組踊(くみおどり)」の創始者とのことであるが、本土出身者であるものにとって全く知識を併せ持たず初めて聞いた人物である。それ以上に、亀甲墓の形がユニークである点について興味があったので訪れた。

市道国際センター線の道路脇に案内板がある

 浦添市内に市道国際センター線という最近できた舗装道路があり、その沿いに写真の案内板がある。実は、ここから道路はトンネルとなっており墓はトンネルの真上に位置している。

玉城朝薫(邊土名家の墓)説明版

 階段を登りきると正面に説明板があり、平坦面となり墓が近いことがわかる。一息つきながら説明板を読む。内容は簡単には、琉球独自の芸能(組踊)を確立した創始者であるらしい。琉球芸能に携わっておられる方々からは元祖であり芸能神とでもいうべき方であろう。

亀甲墓を側面から見る

 何とも異様な亀甲墓である。特に袖垣が曲線になっている点で柔らかい優雅さを感じる。芸能者の墓である所以かも知れない。ご覧の通り外観は眉石が緩やかで屋根は四角形に見える。墓庭の石積が”ハの字”形に開き、全体的な石積みに曲線を多用している。亀甲墓の形式では初期(17世紀後半から18世紀前半)とのことである。

墓室内(調査時)
調査時に搬出された石梁
解説板

 墓室は奥行き2.7m×幅2.4m×高さ約1.8mを測り平面は正方形、亀甲墓の墓室としては小型である。墓室内は天井を支えるため20㎝四方の石柱を4本立て、横に石梁を渡しその上に天井板を置くという構造である。棚があり奥には幅約0.8m×奥行約0.7m×天井高約0.9mの奥室があった。用途は不明である。尚、墓室内には厨子甕(蔵骨器)が計23基発見されている。

 

墓室正面(墓口)切石技術の造形美
曲線の亀甲墓も美しい

来歴は 
 尚真王の三男⇒尚韶威今帰仁王子朝典を祖とする⇒尚氏具志川御殿の支流
 六世玉城親方朝智を祖とする⇒邊土名家の墓
墓としては「玉城朝薫の墓」として指定されているが、伝承によると現在の    墓に移される前は、那覇市首里石嶺町の通称「一つ墓」に単独で葬られていたらしい。23基の厨子甕がそれを物語っている。
本来は邊土名家の墓として名称されるべき亀甲墓であるが、「組踊」という芸能舞踊を創設し世に広め、今もなおユネスコ無形文化遺産(2010年登録)として脈々と生き続けている功績は単独で葬られるものではなく、名家の誇り高き人物であることから後に邊土名家の墓に合葬され、その知名度ゆえに玉城朝薫の墓となったのであろう。朝薫が合葬される前からこの墓がつくられているので曲線美を有する形と朝薫とは同時に合致しないが、これも何か縁を感じる。
 朝薫を偲んで「組踊」とやらを見る用意をしなければいけない。墓参りを終えた後、階段を下りながらそう思った。


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