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日本初の女性天皇の墓~推古天皇陵(大阪府南河内郡太子町)~

 大阪府南河内郡太子町大字山田の地にその御陵(古墳)はある。推古天皇陵、別名を地名から山田高塚古墳ともいう。この地域は飛鳥時代の日本を動かしたスター達が眠る墓が集まる。エジプトファラオの王たちが眠る谷を”王家の谷”と呼ぶが、ここはさながら古代日本の王家の谷であり、実際は王陵の谷と言われている。なかでもこの墓(古墳)はその極みというものであろう。
 

推古天皇の拝所前にある高札

 拝所の右側の高札にはこうある。
推古天皇 磯長山田陵  敏達天皇皇子 竹田皇子墓
推古天皇は第33代天皇であり、日本初の女性天皇として著名だ。在位は36年間という長期政権を築いた。(蘇我氏出身であることから蘇我の傀儡天皇、つまりあやつり人形的天皇という説もある。)その系譜は複雑だが説明が必要だ。何より理解すれば”人となり”が見えてくるので面白い。
 父は欽明天皇(第29代)で母は蘇我稲目の娘である堅塩姫(きたしひめ)である。父欽明天皇は正妻石姫(いしひめ)との間に敏達天皇(第30代)をもうけており、敏達天皇には広姫(ひろひめ)という正妻がいたが、若くして亡くなってしまった。その後、敏達天皇に嫁いだ(というより蘇我稲目が嫁がせたというのが正解だろう)のが推古天皇ということである。父に欽明天皇をもつ、つまり異母兄妹婚でありその唯一の子供が高札にある竹田皇子なのである。

植山古墳東石室(北から)
植山古墳西石室(北西から)

『古事記』には「御陵は大野の岡の上に在りしを、後に科長(しなが)の大き陵に遷しき」
『日本書紀』推古39年9月条には「竹田皇子の陵に葬りまつる」
とあるようだ。何故『古事記』には墓を移すことが記されているのに
『日本書紀』では息子(竹田皇子)との合葬記載しかないのか?良くわからないが、要は墓の場所が移動していること、竹田皇子と合葬されていることは事実なようである。上記写真はその最初の合葬墓とされる植山古墳(奈良県橿原市)である。東石室には刳抜式石棺が安置されており、材質も熊本県宇土半島産の馬門石(まかどいし、いわゆる阿蘇ピンク石)であることが判明している。この石室に竹田皇子が葬られ、西石室に後続して推古天皇が葬られたと推定されている。(石室入口に扉の軸受けらしきものが設置されている。これは兵庫県の竜山石製とのこと、石室入口に開閉装置がある異例の石室である。)ここでは植山古墳についての詳細は述べない。

推古天皇遠景(手前の高まりは二子塚古墳)

推古天皇陵の概要を記しておこう、
東西約61m×南北約55m(下段)×高さ約12mの大型方墳であるが、上部は長方形を呈しているので長方形墳といってよい。3段に築かれ、
中段:東西約45m×南北約36m×高さ約2.5m
上段:東西約33m×南北約25m×高さ約7.0m
頂上部は東西約10m×南北約6mの平坦地となっているらしい。
らしいとするのは当然で、これは宮内庁(書陵部)管轄となっており立ち入りは厳禁であるからだ。つまり外から内部を観察する以外にない。しかし夏は木々が繁茂し観察には適さない。宮内庁の係員が墳丘の墓掃除と伐採を兼ねておこなう冬期を狙うしかないのだ。

推古天皇陵中段付近(西から)
推古天皇陵上段が見える(東から)
同上(上段部が急傾斜であることがわかる)

推古天皇陵(北東コーナー)
推古天皇陵(上段の傾斜部分 北から)

 幸い推古天皇陵の外柵に沿って幅約2m程度の道があり、墳丘を一周し内部を垣間見ることができる。ここでわかるのは上段部分が極めて急角度で築かれていることだ。中段から約7mもある。すなわち墳丘盛土が異様に高くなっていること、そして横長(長方形)であること等から横穴式石室が2基並列して内蔵されている可能性が高いということである。(これは実際、宮内庁の墳丘周辺調査により東西に天井石と思われる石材が露頭していることが報告されている。)墳丘の内部に入れないという消化不良感は否めないが、これが『古事記』の記述にある「科長の大き陵」であることは間違いないようだ。一方、早々と盗掘された古墳でもあった。『扶桑略記』には康平3年(1060)には推古天皇陵の盗掘記事がみえるという。他の記事中には石室内には石棺が2棺存在したという。2石室の存在があり一つの石室内に2棺あるとするならば他の石室の被葬者は誰か?単純に数が合わなくなる。しかしこれ以上は確認する術がない。想像力を逞しくするかAIに頼るか?である。

推古天皇陵(遠景)

 息子(竹田皇子)に先立たれた母親(推古天皇)の嘆きは、いかばかりだったろうか。推古36年(628)3月14日に推古は没している。当時、人民の生活は疲弊していたらしく、遺言には「朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿れ。便に竹田皇子の陵に葬るべし。」と厚葬を禁ずることと息子との合葬を願い出ている。陵は遺言通りにならず、当時では最大級の規模であった。その背景に蘇我氏の政略や陰謀が見え隠れする。
 蘇我氏出身、日本初の女性天皇であり、甥に厩戸皇子を要し激動の時代に翻弄されながら、36年余りの長期政権を樹立した推古女帝。彼女は現在の荒んだ政治を見て何を思うだろうか!そして何より彼女が”絶世の美女”であってほしいと思うのは私だけではあるまい…。

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