アニクシィとカノケリのレビュー:マダミスではないゲーム―シニフィエの誤認
『アニクシィ』と『カノケリ』は独立した作品ですが、「季節のマーダーミステリー」として世界観やゲーム性を共有しているため、2作品共通の論評を掲載します。
まずお伝えすべきなのは、2作品ともマーダーミステリーではないということです。
これは両作品が面白くないということでは決してありません。むしろゲーム性を理解してプレイすれば、店舗公演ならではの楽しいゲーム体験を味わうことができます。
確かにマーダーミステリーの要素はあります。しかしながら両作品のコンセプトにはなっておらず、かつマーダーミステリーのゲーム性とほかの面のゲーム性が競合しています。
数千の作品がある中で「マーダーミステリーとはこういうものだ」というシニフィエがプレイヤーの間では形成されています。単なるマーダーミステリーと捉えてプレイするとそれに反するため、作品の魅力を十全に体験できないばかりか、ストレスだけを感じて終わってしまう危険性を秘めています。
ではマーダーミステリーとはなんでしょうか。
本noteでも何度も触れてきましたが、それは「犯人探し」です。
プレイヤーが物語の登場人物として事件の犯人を探す、あるいは犯人として逃げ延びるという競合がマーダーミステリーの本質です。
そしてゲーム性に深みを与える要素として、「ロールプレイをはじめとする物語への没入感」、「犯人探し以外の目的によるプレイヤー同士の競合」、「論理的な推理の筋道」があります。
『アニクシィ』と『カノケリ』がマーダーミステリーではないのは、両作品のコンセプトが「犯人探し」ではないからです。確かにマーダーミステリーとしての側面はありますし、大きな要素です。しかしゲームの主題ではなく、あくまで主題を支える1つの要素にすぎません。
両作品はそれぞれある街が舞台になっています。物語の結末として、プレイヤーキャラクターの故郷であり、生活拠点である街全体の存続、あるいは滅亡が用意されています。
そしてこれらの結末は必ずしも犯人探しとは結び付いていません。
マーダーミステリーであれば犯人を見つけた、あるいは犯人が逃げ延びたことが最大の価値を持ちます。しかし街の住人として「街が滅んでしまったけれど、犯人は見つけられたのでよかった」とはならないでしょう。
しかもプレイヤーは最後まで二律背反な状態で負荷をかけ続けられます。
犯人探し以外の主目的があるマーダーミステリー作品は数多くありますし、その中には名作がいくつも含まれています。むしろ名作で犯人探し以外の目的がないものが珍しいくらいです。
しかしそれらはマルチタスクではなく、犯人探しとそれ以外の主目的の達成を目指すステップが明確に分かれています。犯人探しを目標とする時間、それ以外の目的の達成を目指す時間で、プレイヤーは1つの目的に集中できます。
手がかりを探す段階では2つの主目的が重なり合っていることもありますが、その場合でも2つが競合することはありません。
つまり、プレイヤーがすべきことが絞られていて、よしんば重なり合っている場合でも両立できるということです。
一方で両作品はそのようなゲーム構造になっていません。マーダーミステリーをプレイすればよいと思って臨むと手痛い目に遭います。
ただでさえ目的達成の両立が難しいのに、ゲーム中には常に大きな負荷が心理面でもルール面でもかけられています。
この負荷が強すぎてゲームの難易度を格段に上げています。しかも実情はどうであれ、プレイヤーからは公平性を欠いていると受け取られかねない因子を含んでいます。
マダミスのシニフィエから外れていること、犯人探しとそれ以外の目的の競合、そして強い負荷、これらが揃うことでプレイ後の満足感は大きく下がりかねません。
繰り返しになりますが、『アニクシィ』と『カノケリ』がつまらないということではありません。
店舗でなければ遊べないゲーム体験がそこにありますし、難易度が高いからこそ成功できたときの達成感はひとしおです。
ただ「マーダーミステリー」というジャンルを冠することでプレイヤーに予断を与え、その通りではなかったことが期待を裏切られたという印象を植え付けています。
シニフィアンがなければ人は理解できませんし、集客面でマーダーミステリーを名乗る事情はわかりますが、プレイヤーにとっては誤認を許しています。