『共同する場としての学校』
「学校はそれ自体で、共同生活が意味するすべての点で、共同生活でなければならない。『民主主義と教育(デューイ)』」
デューイは、「共同体としての学校」と言う学校観を持っており、学校は共同体としての社会を経験できる場所であるべきだと主張しています。
・共同生活とは、学校でだと、どんなことを指すのだろう?
・そもそも共同体って何なんだろう?
・学校が、共同体としての社会を経験できる場所であるために何が必要なのだろう?
こんな疑問で、頭の中がグルグルし始めます。
『クリエイティブ・ラーニング』には、こう書かれています。
「共同の目的を持ち、各自がそれに関心を持って活動を調整して初めて共同体になる」
つまり、一つの目的に向かっていると言うことは、共同体の一つの条件のようです。
それならば、と考えます。
2+3について考える場合に、この答えがわかっている子とわかっていない子とが共同する姿をイメージします。「(具体物を指して)この2つと3つを足してみて、ほら、5になるでしょ!」と。
これは、共同なのかなと疑問に思います。
これは、答えだけ伝えたのではなく、考え方も伝えています。
「ほら、5になるでしょ!」を言わずに、わからない子に答えさせたらどうでしょう?
これが共同なのかどうか…
このあたりは、4月から授業を進めてきた中で、悩んでいたことと重なりました。
これまでは、先生の見える範囲で「共有」させてきました。
「共有化」という言葉の主語が、常に自分側にあったかなと。
「共有」の主語を子どもにした時、授業ではどのような「場づくり」が必要となってくるのかなと考えています。
ホワイトボードを使って一緒に考えたり、それぞれの考えを伝え合う。
協働編集で、一つの成果物を一緒に作る。
子ども達は、指示通り動きますが、イマイチしっくりこない。
思考停止する子どもを作っているように感じたし、思考のカンニングだとも感じました。
一人ひとりが自分事として学ぶためには、やってみていることと、学習のスタイルがピッタリこない。
答えは言っていないけど、その答えに導いているため、結局わからない子が教えてもらっているだけの活動になっている感じです。これでは得意な子にとっても苦手な子にとっても成長は見込めません。
ならどうするか…。
「共同」「協働」「共生」
共同生活とは何か?
共同する授業とは何かということを子どもと考えていきたいと思っています。
一人ひとりの学びを保障し、一人ひとりが成長できる「場」としての教室。
これまでの形とは違う授業への挑戦を思ってきて、活動重視で1ヶ月を過ごしてきました。
ただ、それらは無駄ではなく、それらを教材として、これからの在り方を一緒に考えることができます。
今、自分には2つ頑張りたいことがあります。
・それは、自分が追い求めてきた授業を、新しい形へと進化させること
・「共同生活」を特別活動視点で学校の仕組み化(場づくり)を行うこと
2つは、これまでにも取り組んできたことです。ずっとどこかうまくいかない。
そのベースとなる考え方が、デューイにあるような気がしています。
今年度の研究を経て、学んでいる部分が大きいです。
「共同生活」「共同体」「民主主義」「創造的民主主義」…自分のやってきたことを省察し、これらと関係づけながら、主語がいつだって子どもになるような「場」を作っていきたいな。
そんなことを考えたGW初日です。