対価を頂く、ということ
会社員として毎月給料をもらっていた1年少しの期間。
あの頃の倍は忙しいんじゃないか、と思うけれど収入は低空飛行な現在。その代わりに手に入れたと思っていた、「自由に動く」という権利。
会社をやめて今月で丸2年。
会社員時代にした貯金と、親がお年玉とかを貯金してくれてたのと、ちょこちょこ入る仕事の収入と、みたいな継ぎ接ぎのお金をやりくりして、なんとかここまで生きている。
一人暮らしをして、ある程度自炊もして、お金はできるだけ地域のために、周りの人のために、価値のある出費をしようと心がけてきたつもりだった。いろんなことを、お金が無いのを言い訳にしたくなかったから、余裕あるふりをして生きてきた。
先月、親が移住を決意して、20年住んだ大阪の家を出て甲賀に引っ越してきた。田舎の大きな家だからと、私も一緒に住むことになった。正直、家賃が浮くのはとてもありがたいことで、最低限の生活ができるという安心感もあった。
私も今月で26歳。世間一般でいえば社会人4年目になり、ある程度一人前の大人として振舞わねばいけない年齢なのかもしれない。親と一緒に住むにあたり、月にいくらか家にお金を入れるべきだよね、という話をしていた。
今まで親に「お金あるん?」と聞かれても、心配されたくないから「あるよ」と答え、親にまで「ちゃんとした社会人をしている娘」を演出して生きてきた。本当は全然ちゃんとしていないし、自転車操業だし、来年何をしているかも、収入の見込みも何もないのに。
今になって「貯めてるんやったら、その分家にお金いれてね」と言われたときに「今月余裕ないから来月からにしてくれん?」と言ってしまった。そこで初めて、私の自転車操業が親にバレる。親の不安も増えるし、私に対する信頼も落ちる。
はじめて、「お金を稼がなければ」という焦りが出てきた。収入を得なければ社会で生きていけない、ということをこんなタイミングで実感してしまった。見て見ぬふりも出来ない状況になってきた。
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改めて今の生活を見直してみる。1週間のうち、空き時間と呼んで良い時間は限りがある。溜まっていくタスクに、新たな打ち合わせに、どんどん時間が埋まっていく。
日々つけているToDoリストを見てみると、その半分以上はボランティア的な動きであることを突き付けられる。周りからの搾取ではない。私が望んで、自らそうなっているのだ。
周りの人たちの意識ある行動に対して、「私に出来ることで貢献したい」という気持ちが先走って「これくらいやりますよ」と言ってしまう。言ったからにはちゃんと全うしたいからと、お金をもらう仕事と同じように力をいれて取り組む。
そのおかげである程度の信頼はしてもらっているのかもしれないけれど、一度ボランティアで動くとその後もずっと同レベルの動きを期待されてしまう。
誤解を招かないように言っておくが、周りが悪いのではなく、そうさせてしまっている私の動きの問題である。
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改めて、私は誰から何に対してお金をもらうべきなのか、ちゃんと考えてみたい。その前に、私はそもそも「仕事」と言えるような働きが出来ているのだろうか。
社会のために時間と労力を行使している自信はある。だけど、その動きに対しての対価は誰から払われるべきなんだろう。社会って誰だ。
今年から「コーディネーター」という肩書きをつけ、ワークショップデザインや個人の相談、ファシリテーター業を中心にしようと動くようになった。本当はこういう仕事をして生きていきたい。でも、これらは世の中では「お金を払ってお願いすること」として認識されていないのが現実。
飲食や、何かモノを作って売っている人が羨ましくなることがある。食べ物や服やアクセサリーをお金で買うのは当たり前。でも、会議の進行やイベントのアイデア出しや対話の促進といったものは「得意な人が自ら進んでするもの」と認識されている感が否めない。
新規事業やイベント運営を応援するような補助金も増えてきたが、その多くが「準備と運営にかかる実費」を補助するものであって、コーディネートする人に対する対価は考えられていない。やりたいことをやらせてもらえるんだから、人件費はなくて当然だろう、と言うかのように。
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私は別に、お金を稼ぎたいわけではない。ただ、世の中で”納得できるお金のまわりかた”を考えたい。
お金、お金という人にはなりたくないし、お金以外の価値で動く人でありたい。お金が出ない場にも呼んでもらえる人間でありたい。
でも、そればっかりで予定が埋まるようではいけないな、とも思う。お金が発生しないような場を積極的に楽しむには、心の余裕が必要で、そのためには少なからずお金の余裕というものも関係してくるはずだ。
私が目指しているのは、好きなことをするためにお金を稼ぐ、という単純な話でもないし、好きなことに対してお金が欲しいというわけでもない。世の中で「然るべきところにお金がまわる仕組み」をつくりたい。
そのための第一歩として、自分自身がその「然るべきところ」に値する働きをすることと、その価値を世間に身をもって伝えることを頑張ろうとしていたつもりだった。
実際、ワカモンラウンドのようなワークショップを継続して開催していることで、市役所の複数部署から「ファシリテーター」としての依頼をいただくことも増えたし、個人の相談レベルからコンサルに発展してお金をいただくことも増えた。
いまの方向で間違っていない、と思える理由も少しずつ増えてはいる。ただ、それらの金額や頻度は私の生活を支えてくれるには至らない。このままあと何年か頑張ろうか、と思っていたけれど、親に痛いところを突かれたことで、いまの方向で動き続ける自信も喪失しつつある。
こんな長いボヤキを残してしまったら、周りに心配されるんじゃないだろうか。いろんな会議に誘われなくなるんじゃないか、という不安も残る。
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フリーランス、個人事業という働き方は、自分で自分の価値を決めることだとよく言われる。それと同時に、周りから自分の価値をダイレクトに評価される仕事であるとも感じる。
「世間の価値観を変える」ことの究極は、そこなのかもしれない。価値観と言うと「何を大事にする」みたいなふわっとしたイメージがあるが、具体的にすれば「何に対していくら払えるか」観である。
世の中の人たちは、私のどんな動きに対して、どんな価値を払いたいと思ってくれるのか。それを追究しながら自分自身でも己の価値を上げ、見せていかなければいけない。
このことに気付いただけでも充分な収穫だし、この文を書く前よりも少し肩の力が抜けた気がした。
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じゃあ具体的に何ができるの?って聞かれそうな気が少しだけしたので、この場を借りて私が出来ること、書いておきます。
●コーディネーター・ファシリテーター
人と人がつながり対話をするような場をつくること、何かテーマに対して意見交換をする場をつくること、その場にいる人の声を引き出すこと、場合によってはその場の意見を収束させたりまとめたりすること
●ライティング・デザイン
文章を書いたりチラシ等のデザインをすることも可能。
ただし、技術者ではないため要望に沿ったものをつくるというよりは、私と依頼者が感じたこと、伝えたいことを伝えるような創作物。
●話すこと
「読み上げること」や「綺麗に話すこと」はできませんが、自分自身の何かを伝えたり、誰かの声を聞きだすことは得意になってきたかもしれない。たまにキャリア教育の授業とか、地域づくりの講座に呼んでもらうこともあります。
●その他、ボードゲームを活用したワークショップや研修、ソーシャルビジネスのデザイン、地域コミュニティ通貨の活用・普及、インターンプログラムの裏方など、組織に属した立場で動いています。