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散歩するように生きる
中学生・高校生の頃、帰り道に最寄り駅のショッピングモールで目的もなく一人でぶらぶらしていたことが多かった。
稀に買い物をすることもあったが、ほとんどは何も買わずに帰る。
大学生になり少し自由な時間が増えると、たまに定期圏内で知らない駅で降りてひたすら散歩することがあった。鴨川、瀬田川、宇治川など、いろんな川を眺めた。
会社員の頃、通勤時間は徒歩15分だった。
家に帰っても一人なのに、なぜだかまっすぐ家に帰りたくなくて、意味もなく遠まわりして帰ったことが何度もあった。
近くにショッピングモールも川もなかったので、ひたすら田んぼのあぜ道や住宅街をうろうろしたり、無意味にドラッグストアやスーパーを巡回したりした。
甲賀に来てから、主な移動手段が車になった。
一人暮らしなのに、やっぱりまっすぐ家に帰りたくないときがあって、家の駐車場に車を停めてぼーっとしたり、車から降りて家の周りを10分くらい歩いてから帰ったりする。
少し話はそれるが、車という乗り物は寄り道がしにくい。
遠回りならいくらでもできそうだが、方向音痴なので万が一山の中で遭難したら、とか考えてしまってあまり冒険ができない。
歩いていれば、足を一歩前に出さなければ止まれるし、怖くなったら切り返す場所を探さずともUターンができる。
寄り道は、身軽な方がやりやすい。
***
なんで寄り道をするのか、考えてみた。
寄り道する人は、近道を知っている。
知っているけど敢えて、遠まわりをしている。
もしかすると、近道を探してみるのも面白いかもしれない。
この道、もしかしたら近道かもしれない、と思って知らない曲がり角を曲がるのも「道を外れる」の1つ。
なかなか上手くいかなくて、近道に辿り着くまでに何回も遠まわりをする。
それも立派な寄り道だ。近道を見つけるための、寄り道。
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人生にも、寄り道や遠まわりは存在するんじゃないかと思った。
私の人生において2023年11月の今が、まっすぐ近道を生きているわけがない、と思う。過去を思い返しても、あの期間はここに至るまでの寄り道だったのかな、と思えるようなこともある。
そもそも、人生における近道、大きな道ってなんなのだろう。
そういえば、「寄り道」や「遠回り」は目的地があってはじめて成り立つ。最短ルートが存在するから、そうじゃない道も存在するのだ。
目的地がないと、すべてただの散歩になってしまう。
人生の目的地ってなんだろうか。
成功すること?宿命を果たすこと?はたまた、死ぬこと?
いろんな本を読んだり、人と話したり考えたりして、
今の私の中でこのテーマのベストアンサーは
「人生の目的は、自分の生を全うすること」となっている。
もっと今っぽく言うと「自分らしく生きること」とかになるのかもしれない。
寄り道や遠回りは「目的地」ありきだと書いたが、
人生は1つの目的地を目指すわけではない。
仕事、プライベート、趣味などいろんな軸を持ち合わせているとその軸の数だけ目的地があったりするのかもしれない。
身体は一つなのに、通るべき道がたくさんあるとしんどくなったりもする。
目的地への移動を絶えず繰り返すなかで、その多くは知らない道で、正しい道かどうかもわからずにがむしゃらに歩き続けることが多い。
地図アプリにおいて、正しい道は「最短距離」とか「費用が安い道」になるけれど、人生においてそれらは正しいのだろうか。
「自分の生を全うすること」そのものが目的なのであれば、どんな道を通ろうがそれが「自分の人生」であり「自分が通った道」にちがいない。
だから、今いる道をがむしゃらに歩いてもいいし、脇道に逸れたくなったらそれもいいし、ちょっと遠回りしても立ち止まってもいい。
目的地は必ずしも定かではないし、終着点ではないから、
Aを目指している途中でやっぱりBを目指してもいい。
Aへの道のりとしては遠まわり、途中で断念でも
Bへの道のりとしては近道だったりする。
「自分の目的地はここだ」と思い込みすぎないことも、
楽しい遠まわりに必要なマインドなのかもしれない。
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意識ではまっすぐ進もうとしてるのに、気がついたら遠まわりしてしまっている状態を迷子という。人生にも、迷子期間は誰しもあるんじゃなかろうか。
寄り道、迷子はどちらも知らない道を歩いてるんだけど、迷子のときは道を探すことに必死だからまわりが見えにくい。
はやく正しい道にって思ってるから、その遠まわりを楽しむ余裕がない。
迷子のときって、道がとても長く感じるし、
まわりの建て物や人が大きく見える。
同じ時間歩いてても、知ってる道は知らない道より短く感じる。
寄り道してても迷子になっても、見てる景色は同じで、どちらも知らない景色。
何が違うか。
寄り道は、"知らない景色だ"ということを知っていて、
迷子は"知らない気がするけど分からない"
もうずっとここから抜け出せないんじゃないかって不安になる。
迷子セニターの存在を知っている子どもは簡単に迷子になる
という仮説を考えてみた。
「店の人に言えばアナウンスしてくれて、親が迎えに来てくれる」と知っている子どもは、親についていくことよりも自分の好奇心を優先して、何かに目を奪われたり立ち止まったりできるんじゃないかと。
本当にピンチになったとき、助けてくれる人がいる、と思える人は強い。
親じゃなくてもいいんだけど、そういう存在を認識していると、人は少し思いきりが良くなるのかもしれない。
あっちの方、たのしそうだな、と思ったときに「行ってみよう」となる。
一人じゃないことを知っていると、一人になれる。
まさか、こんな言菜が自分の中から出てくると思わなくて驚いた。
***
ここ最近、自分の生き方をよく考えている。
自分は、どんな生を全うしたいのか。
自分の人生の中で、誰を救いたいのか、と考えた。
一人で寄り道するのが怖かった小学生、中学生の頃の自分みたいな子ども。
自分の道はここで正しい、と思い込んでがむしゃらに走っていた10代後半の頃の私。
寄り道することを決めたけど、みんながいる大通りに目を向けてしまう私。
安心して「寄り道」していい場所がほしい、と思った。
ちょっと「遠回り」できる余裕がほしい、とも思った。
だから私はとりあえず、「寄り道を考えること」に寄り道してみた。するとそこには、たくさんの小さな道が広がっていた。
その小さな道は私だから見つけられたと嬉しくなって、
ニヤニヤしながらいくつかの道に寄り道してみた。
おかしいな、自分の生き方を考えていたはずなのに
気がついたら寄り道の寄り道みたいな、すごい遠回りをしている。
そろそろ大きな道に帰ろう。
ただいま。