24歳、自分自身を綴る|自己紹介
noteをはじめて1年半以上が経った。
初投稿の記事に連ねた「書きたいこと」の半分も書かず、まったく統一感の欠片もない記事が並んでいる。
これだけ書いているのにnoteのプロフィール記事に設定できるようなものが1つもないのは逆に気持ち悪いと思い、なんとなく誕生日の朝に自己紹介を書く。
自己紹介といっても、このnoteのアカウントをフォローしてくださっているのは高校や大学の友達、ラジオやYouTubeなどの共通の趣味で知り合った方、noteで偶然記事を読んでくださった方までさまざまで、書ける内容に限界がある。
せめて趣味と日常でアカウントを分けていれば、と思うこともあるが、自分でつくったテーマの境界線に苦しむ自分がまざまざと見える。
個人を特定されない程度にプライバシーを守りながら、なんとか自分自身をあらわす記事を書いてみる。
最近の悩みと抱負
仮にも自己紹介というテーマでありながら、初っ端に悩みをぶちまけるあたり、本当にテーマに沿った文が書くのが苦手である。
昔から、日常の些細なことから社会の大きなことまでいろいろなことを考えるのが癖になっている。そして、 "自分なりの考え" を持てるまで熟考を重ねてたどりついた価値観や考え方を簡単に捨てられないのが悩みだ。
他人の価値観や考えを聞いて、違いを知るのは面白いし、否定したりはしない。刺激を得ることはたくさんある。だが、自分の考えを変えるハードルが高すぎる。頑固者とも言う。
ただ対話をするだけなら困らないのだが、一緒に何かをする関係、同じ方向を見る関係となれば価値観のぶつかり合いが避けられなくなってしまう。「誰かとぶつかりたくない」けど「自分はこう思う」という二つの強い信念を戦わせた結果、どちらも満足に貫けずにドローに終わることが多い。
24歳は、もう少し柔軟な大人になりたい。
いつ、何を書くか
暇さえあればnoteを書いている。
いま公開されている記事の裏側には、数文字程度のメモから5000字を超える熟成した自論まで、大量の下書きが眠っている。
もしnoteにログインできなくなったら、かなりのダメージを食らう。
大前提として、私は読まれるために書いているわけではない。そして経験から言えば、読まれるために書いた文章はあまり読まれない。
過去の自分の記事を読み返していても、何かを伝えようとして書いた記事よりも、自分の感情の赴くままに勢いで書いたものの方が読みやすく感じる。
だが、ありがたいことに、書きはじめたときにはタイトルも終わり方も何も見えていない無鉄砲なnoteを面白がってくれる人がいるのも事実。
読まれるために書いているわけではないと言いながら、読まれると嬉しいし、承認欲求が満たされる感覚になる。スキやコメント、感想もいちいち飛び上がるほど嬉しい。
書きたいときに感情に任せて書くほうが、読み手からしても読みやすい、というのは有難い話なので、今後もマズローの上位2つの内的欲求(自己実現と自己承認)を満たすようなnoteを書く。
人が好きな人見知り
可能なかぎり個人を特定されない自己紹介を試みると、なんとなくそれっぽいキャッチコピーができた。こんな言葉がSNSのプロフィール欄に書かれていれば、私はそのアカウントにほんの少し軽蔑の眼差しを向けてしまう。
そもそも「人が好き」というのが根底にある。趣味で書いたラジオや読書、音楽のなかでも特に、ラジオとエッセイ本は、その人の仕事という範疇を越えた性格や価値観、ものの見方や考え方を覗けるから好き。
人の多い都会は苦手だけど、人間観察が好き。観察対象となる人が多い都会では、その情報量に圧倒されてしまい、逆に何も考えられなくなってしまう。
もしかすると人間観察という表現は語弊があるかもしれない。
ある人のある場面での切り取られた行動から、その人がどんな人か、友達関係や仕事でどんな立ち回りをするか、勝手な妄想をふくらませることを私は人間観察と呼ぶ。
同じ会社で働く社員がそれぞれプライベートな空間を持つように、ある場所で同じ行動をする人たちが、また別の場所では異なることをする。
一人のアーティストの大勢のファンは皆、異なる過去や生い立ちを持ち、同じ音楽で盛り上がる。
異なる価値観やスキルをもつ複数人があわさり、同じ目標を目指して組織をつくる。
人間という生き物、そして人間同士が交わってできる化学反応のような組織を知るのが面白くて楽しくて仕方ないのだ。
人が好きな理由を読んでお察しかもしれないが、私は極度の陰キャで人見知りである。
街中で人間観察をするが、その人が目の前にいて話さざるを得ない状況になれば、咄嗟に逃げるかもしれない。ちなみに、そんな目に合ったことはない。
人と話すのは大好きだ。私を知るには話をするよりnoteを読んで欲しいと思うくらい話すのが下手くそだが、対話という行為は人と人とのぶつかり合いであり融合の過程でもあり、尊い時間に感じる。
人見知りを克服すればもっといろんな人と話す機会が増えるだろうから、とりあえずリハビリのようにたくさんの人と話してみたい。
インドアなフッ軽
人が好きという話からつながる、2つ目のキャッチコピーも相変わらず矛盾が生じている。この言葉ならSNSのプロフィールに設定してもそこまでイタくないかもしれない。結局は自分のさじ加減である。
私の趣味はラジオ、読書、音楽と、明らかにインドア。
一日中、陽の当らない室内に拘束されたとしても、ラジオと本とパソコンがあれば余裕で楽しく過ごせる。拘束されていなくても、実際にそういう休日はある。
近場の散歩を例外として、「自分が行きたいから」という理由だけで外に出るのが面倒くさい。自然のなかでラジオを聴く、本を読む姿に憧れはあるが、わざわざそれだけのために移動しようとは思わない。
だから散歩の範疇で自然を感じることができる田舎に住むのかもしれない。
そんな根っからのインドア人間、人に会うためならいつでもどこでも行けてしまう。この人と話しに行きたい、定期的に会っておきたい、この人の催しには参加したい、など誰かに動かされることは面倒どころか喜ばしい出来事である。
誘われたら行くのはもちろんのこと、自分から誰かをたずねようという気持ちだけでもフッ軽を発揮できるので、幸いここまで引きこもりにならずに済んでいる。
心理的にも物理的にも私の原動力となっている皆さん、いつもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。
さぁ、24歳はどんな年にしよう
なんとなくの感覚ではあるけれど、24歳は自分にとってかなり節目の年になるような気がしている。
これからどうなりたいか、どう生きていきたいか、何をしたいか、一つ一つ自分と向き合い、人と話し、そのための着実な一歩を踏み出したい。
「四捨五入したら二十歳」を名乗れる最後の1年、のびしろしかない。
2022.6.23 ひな