私を救う、対話
私ね、誰かが怒ってるところを見るのがとても苦手なんです。得意な人なんて居ないかもしれないけど。
ちょっと声を荒げたり、大きな声で罵倒したり、感情的に一方的に言葉を投げ捨てたり、、
そんな人が近くにいると何とも淋しい気持ちになります。
お笑いは好きだけど、テレビ番組のドッキリや、怒る演技とかもあんまり好きじゃないです。
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私は人生の軸の一つを「対話の場をつくること」としています。多分、私は自分の身と心を守るために、そんなことを大事にしています。
哲学対話を提唱している永井玲衣さんが大好きなのですが、彼女も「対話は戦争をなくすことができる」みたいなことをどこかで言われていた気がします。
武器を使う戦争も、武器を使わない殴り合いも、言葉での罵倒も、無視という暴力も、すべて「そうなるに至った背景や原因」が存在するはずです。
原因もなく争うこともあるかもしれませんが、そんな非人道的なものは論外として。
子ども同士の喧嘩でも夫婦喧嘩でもSNSのアンチコメントでも、相手の抱える事情や背景、気持ちに耳を傾ける前に、自分の負の感情が全面に出てしまっているように思います。
喧嘩するのが悪いとは言いません。喧嘩するほど仲が良い、とも先人は言いますし。
ただ、私は「全部対話になれば良いのになぁ」と思うわけです。対話をしている中でどうしても相手の発言が許せず、はらわたが煮えたぎるようなことがあったら、声を荒げることも仕方がないかもしれません。
そうなっても冷静に対話を続けられるのは仙人のような精神の持ち主になるしかありませんね。
ただ、声を荒げることで、手を出すことで、本質的に解決する課題なんてないと思うのです。傷つく怖さから解決したように見えても、ただの動物が罠にかからないように勉強しただけに過ぎません。
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どうすれば対話のあふれる世界になるのか、私はずっと考え続けています。
対話が十分ではなさそうな場面に「ワークショップ」という名の半強制の対話空間を生み出してみたり、ボードゲームなどの「対話促進ツール」を提案してみたり。
落ち着いて対話をするには、落ち着いた精神状態が必要不可欠だと思うので、アロマやコーヒー、音楽などの落ち着く空間をつくるツールを持ち合わせてみたり。
「自分から話す」ことが苦手な人のために、「想いや考えを書き出す」ことをサポートしてみたり、ひたすら頷いて相槌をうって、話を引き出すお手伝いをしてみたり。
私に出来ることは、まだこんなちっぽけなもんです。でも、この積み重ねが私の周りに対話を増やし、怒りや暴力を減らすと信じています。
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私自身、数年前から考えるとかなり声に出して話すことが得意になったと自負しています。ラジオをするようになってから余計に、「良い精神状態で話すこと」を意識的に出来るようになってきました。
高校生、大学生の頃はいろんな会議や日常会話で友達を論理で突破すること(通称、論破)を得意としていましたが、それにより口論になることも度々ありました。
26歳の私は、論理だけでなく自分の気持ちや相手の気持ちを想像して、寄り添いながら言葉を紡ぐことを覚えました。
相手に気を遣って、言いたいことを言わないわけではありません。伝えたいことを整理して、伝え方を考えて、ゆっくり冷静に伝えるのです。
私は話すよりも書くほうが客観的に自分を見れるので、本当に大事なことやセンシティブなことは敢えて文章で伝えるようにしています。
私の思う対話とは、ただ交互に話すことではなく、互いの気持ちや考えを聞き合うことです。
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冒頭にも書いた通り、私は誰かが怒ってるところを見るのがとても苦手です。耳も目も塞ぎたくなります。親しい人や近くにいる人だと、よりつらいです。
なので、私は自分の身を守るために、自分の周りに対話を増やそうとしています。
対話自体も多分、そういうものだと思います。
自分のため。自分の伝えたいことをまっすぐ、丁寧に相手に伝えるため。自分が相手のことを勘違いして怒らないようにするため。
先日、甲賀市で「私たちのウェルビーイングを考えよう」というワークショップを企画したとき、最後に大学の先生がくださったコメントが印象的だった。
このままの言葉ではありませんが、このような内容でした。対話そのものが、1人の人間の循環をつくり、大勢の人々の中でも循環をうみだす。
だから私は対話のある空間に居続けたいのだなぁ、と納得したのでした。