タトゥー

ある晩、とある外つ国の友に、タトゥーは入れてないのかと尋ねられた。僕の属する界隈からは出てこない質問文なので嬉しくなり、その場で彼女自慢のタトゥーを見せてもらった。それは大変立派なもので、僕は羨ましかった。仮に僕がタトゥーを入れたとして、僕が長年培ってきた自分のキャラなら「あいつはもうどうしようもないから」と許される気もするけど、僕は踏ん切れない。デザインを決めきれず迷惑をかけるのが目に見えているから。

いっそ谷崎『刺青』のように、生足をぽろりと見せてタトゥーアーティストにナンパされ、何々の図柄を入れたいと迫られたら、きっと断らない気がする。が、残念ながら僕の足は、とても「血肉に肥え太る」ような艶めかしいものではない。ごくふつうの足だ。左足の甲には正座に困るガングリオンまである。だいたい作曲家などという生業は、どう頑張っても「美しい者」の側でなく、お茶坊主や幇間の類なので、まずは立派に存在できることを示して、世間にのんびりしてもらうのが第一である。

そうか、きっとそうだ。作家は紙やコンピュータで書く行動様式が身についているから、消しゴムやdeleteキーで消すしぐさが体にしみ込んでいるから、違うとなればサッと直して誰にも見せず、なかったことにすることはできないものに対し畏れを抱いているのだろう。途中で気分や事情が変わったからといって、さすがに我が身を暖炉にくべたり、ヴルタヴァ川に投げ込んだりするわけにいかない。タトゥーの線や面のひとつひとつに意思の力を感じればこそ、羨んでいるに違いない。

「愚」という貴い徳が社会から失われ、作家のレベルにまで堕ち、国家の文書にも手を入れるという愚にもつかないことをするようになった現代、人民は、おいそれとは消せないものを激しく憎み、忌み嫌うようになったとのことである。…と、三社祭の写真を見て思いました。


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