私の精神変遷詩5(二階堂奥歯編)
最後は二階堂奥歯編だね。ここ1年半くらいの僕の価値観を大きく方向づけているのはこの方だよ。彼女についてまず説明すると『八本脚の蝶』といったブログで自分が触れた芸作品(主に書籍)を引用しつつ、そこから自身が掬い取ることが出来たものずっと書いていた人だよ。彼女の感受性、ある物事に出会った時にそこから何を受け取ることが出来るか、は常人のそれとは根本的に異なっているって感じがしたよ。どのように異なっていたかについて彼女を特徴付けていると感じた点を標語的に主張してみると「届かないと理解した上での絶対的な存在への憧憬」って感じかな。まずはそれについて説明してみるね。ちなみに『八本脚の蝶』は文庫版で出版もされているよ。表紙がとっても綺麗だよね。
■届かないと理解した上での絶対的な存在への憧憬
ここでの「絶対的な存在」というのは、確実と思えるような命題だったり、一神教の神だったりと、それについて自分は全く懐疑を挟む必要がない存在、最も深い所にある根拠のようなものを想定しているよ。客観期のわたしが求めていたような自分自身の生を規定してくれる何かと大体は一致してると思うよ。そして彼女はそうしたものの存在を信じていない。少なくともそれが確定した不変の対象として存在することは信じていない。それでもそれを追うために歩みを止めないこと、探し求め続けることは大切だと思っている。これに関して少し長いが彼女の文章を引用してみるね。
自分の死を、生を、存在を価値づけてくれる何かを今更信じるなんて出来るだろうか。
(中略)
何かを信じるということは、目をつぶり鈍感になることだ。
それによって生まれる単純さによって安らぎと強さを得ることが出来る。
自分で立たず、大きな価値にくるみ込まれて「意義のある」人生をおくることができる。
でも、それは偽物だ。
私は一人で立っていられないほど弱いのかと問えば弱いと答えるしかない。
だからたまに自分を支える物語が欲しくなるけど、それは転落であり不誠実な態度だという気持ちがいつもつきまとう。
いつでもその根拠を支える根拠を問うことができる。だから信仰はいつも仮のものだ。現実はいつも定義されたところのものだ。
これに根拠はない。しかしこれを現実としておこう。そうやって日々を生きている私が、今更どのような自己欺瞞を行えば何かを信じることができるだろう。それでも私はほっとしたい、何かを信じたいと思ってしまう。身を投じてしまう。
これは偽物、架空のもの。これの正当性に根拠はない。私の信仰によってこれは信仰に値するものとして聖化される。そう意識しながらそれでも行う信仰には最初から破綻がつきまとっている。
『八本脚の蝶 』2002年3月13日(水)その2
彼女は哲学科出身なので、私が前回までに挙げたような議論は私よりも遥かに知悉しているよ。様々なことに基礎づけを求める考え方の傾向は”いつでもその根拠を支える根拠を問うことができる。”といった一文からも読み取れる。そして基礎づけを求め続けても不動点としての結論は存在しないことも知っている。仮に結論に見えるものを見つけたとしても、それは「鈍感になることにより安らぎと強さを提供してくれるだけの偽物」だとも思っている。しかしそれでも、そうした基礎づけを求めてしまう気持ちが否応なくあるといった心境がとてもよく分かる。最後の一文の ”そう意識しながらそれでも行う信仰には最初から破綻がつきまとっている。”については、自分がやっていることはパロディであってごっこである事を意識しながらも、それに縋らざるを得ないやるせなさが良い。
マゾヒズム
「絶対的な存在」を求めている傾向に関しては彼女が述べている「マゾヒズム」にヒントがあると思うよ。あ、マゾヒズムの一般的なイメージって蝋燭、鞭、荒縄とかかもしれないけど、ここではそうしたイメージで使っていない。ここでのマゾヒズムの本質は「何か絶対的な存在に魂をゆだねることによる個からの解放」にあるよ。そしてそのための手段のひとつが受苦を通過することにあるんだ。彼女は聖女譚をよく引用しているけど、それはキリストの端女たらんとする修道女たちに似たものを感じているからだよ。
少し別のお話をするけど、自分が心底充足しているときって「自我」を一切意識していなよね。学問でも創作でも芸術でもゲームでも何でもいいのだけど、自分がそれにモノスゴク集中しているときって対象と自分が分かれている感じがしなくて、まさに「のめりこんでいる」感じがするよね。いわゆる主客未分の純粋体験てきなやつだね。飛躍があるとは思うけども、こうしたことから「自我から徹底的に離れて別の大きな存在に取り込まれることにはとてつもない充足がある」って主張するよ。
エヴァのアニメのラストとかは人類全てがLCLになって、他者との境界がなくなって一つになったけどあれと同じかもしれない。ジャン・ロスタンって人は「全ての存在は失われた一元性を取り戻すための衝動に支配されている」といった旨のことを言っていたけどそれも同じ。彼はゾウリムシですら交合して一つになるのを観察してそうした結論に至ったらしい。彼はこうした衝動を詩的にも「存在の飢え」と呼んでいるよ。これは性的な結びつきとか友人とか社会的なつながりとかを求める傾向をとても抽象的に表す事ができているので好きな表現だよ。
これについてもう少し具体的な例をいくつか出してみようか。「同じ宗教の信者たちとの会合」「特定の国家に属している事を誇りに思っている人」「特定の思想で結びついた〇〇主義者たち」等々。社会的な繋がりの中に充足を見出すような例をあげたけども、これらに共通している点として自分よりも大きな存在に「自分の考え方」のようなものを移譲している感じがしないかな。こうした時に感じる「自分が大きなものの一部になっている」感覚がここで言う充足の本質だって主張したい。
さてさて二階堂奥歯の話に戻ると、彼女が惹かれていたのはこうした充足だと思うよ。そしてその対象は神とか世界とかのとてつもなく強大な対象だったように思う。ここでの神は便宜上そう呼んでいるだけで、特定の宗教の信仰対象ではないよ。なんというか「世界の根源に関わっているような何か」ぐらいの言い方の方が良いかもしれない。そしてこれも重要なんだけど彼女はこうした自分の態度のことを
知的に不誠実な態度をとっている。幸福になるために、目を閉じたのだ。
『八本脚の蝶 』2002年12月17日(火)その2
とも評価している。あくまで彼女が追い求めたいのは「世界そのものの根源や仕組み」であって、神そのものではない。神を通して見えるかもしれない先の風景なのだ。彼女はこうしたものを求める人々を「尋めゆく者」と呼んでいた。そうした物を追い求める営みの中で必然的に立ち現れてくる「神」といったものに対し、その絶大さ・強大さの中に留まる安楽さを知っているけども、それは不誠実な態度だと思っている。うーん、誠実で純粋だよね。
彼女にとって一番重要だったのは「尋めゆく者」であり続けることだったように思う。結論だと思えるものにたどり着いたとしても、すぐにそれを足場にして次の場所へ向かう。そうした営みの繰り返しだけが「絶対的な存在」へ至るための唯一の方法なのだと思う。
ところで雪雪さんの言葉だけど、こんなのもある。ちなみに「雪雪さん」というのは二階堂奥歯がブログの中で度々言及している彼女の一番の理解者の人だよ。
哲学者にとって問いの尽きるところは解決ではない。
なぜならそこは、かれの素質の尽きるところであり
お楽しみの終わりだから。
『八本脚の蝶』 2003年4月1日(火)その12-1
「重要なのは『問い質すこと』をやめないことだよね!」って気持ちを忘れないでいるためにとても好きな文章。
■結論ではなく前提としての虚無主義
まずは雪雪さんが二階堂奥歯について語っている文章で一番好きなものを紹介してみるよ。
奥歯は、すこしも世をはかなんではいなかった。物語の力を疑っていなかった。自分の脚ですてきなものを捜し、自分の力でしあわせを掴み取った。胸がすくくらい果敢だった。幸福や希望では埋めることのできない、絶大な不安と恐怖。それでも、しあわせを見失うことはなかった。生き続ける手段としてしあわせを求めるのではなく、愛するものたちを存在させた世界が好きだからしあわせになった。
(中略)
(どんなに幸福であっても不幸であり得るという絶望と、どんなに不幸であっても幸福であることができるという希望をともに、ぼくは知った)
『醒めてみれば空耳 』 明けたままの長い夜
分析哲学の所で書いてきたような内容を理解できれば分かってもらえる感覚だと思うのだけども、「絶対的な存在」をまったく拠り所に出来ないと分かると虚無る。考え、追い求めてきたはずの「絶対的な存在」が、どこまで行っても自分という主観に依存している存在だったという結論は受け入れがたいよね。というか私はわりと虚無った。虚無主義が結論に思えた。ちょうどそのあたりの時期に二階堂奥歯の文章を読んでいたのだけど、彼女に関して尊敬している点として上の文章の「自分の脚ですてきなものを捜し、自分の力でしあわせを掴み取った。」って所がある。全てに価値がないと思い込んで何も手を動かさなくなる怠惰な虚無主義に陥るのでもなく、自らの不幸を特権化する傲慢な悲観主義に陥るのでもなかった。こうした点は素直に見習いたい。悲観主義への批判としては以下の文章がとても良かった。
私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。
それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ。
(中略)
徹底的な絶望から生まれたものは、余計な夢や望みを脱ぎすてているから遠くまでいける。そして純粋な絶望を書いたものは少ない。
絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。
『八本脚の蝶 』2002年1月14日(月)
彼女は虚無主義を結論ではなく前提として受け入れていたように思える。
このような視点に気付いたのは『八本脚の蝶』を何度も読み返したり二階堂奥歯に関して言及している人の文章を読んだりした後だった。一番大きかったのは以下の早乙女まぶたさんの文章。(ちなみに引用は二階堂奥歯とは関係ない文脈です。)
思えばシュテイルナーだって無は結論じゃなくて前提だった。無の上に創造して生きることを教えていたのだ。あえて世間に居続けることの意味を、無意味の上を歩く意味を創造していかなくてはいけない。
『悲鳴は密室で』 無心のダイナミズム
見せかけの価値観に服従する奴隷ではなく、善悪などという偽りの価値が跡形もなく消滅した永劫回帰の地平を、自分自身にのみ根拠を持つ価値観によって力強く歩めたらという願いは、自殺を棚上げにする根拠となっているほどです。
『悲鳴は密室で』いま振り返る5名の偉人さん
二つ目の引用の”自分自身にのみ根拠を持つ価値観”という言葉がとても気に入った。虚無主義を前提とした上に何かを築こうとする意志を忘れないでいられる。前回の「へびあし」にも書いたのだけども対象の側に固定されたパラメーターとしての「価値」は信じていない。あるのは「価値づける」といった動詞だけであって、数多の人間による無数の価値づけが織りなす世界の中で最重要視するのは「この私」によって価値づけられる対象だって感情は忘れないようにしたい。私的なイメージの話だけど世界と私の関係は、構文論と意味論に似たイメージを持っている。構文論とは「文の形式として許容されるもの全体を定めること」であって意味論は「構文論が定める文に対して、その意味を付与するもの」ぐらいに解釈してもらえばよい。世界の側は無色透明で無味乾燥としているのだけども、それに色彩と意味を吹き込むのが自分自身に根ざした価値観であるような感覚。どのような現象が起きうるのかは世界の側に制約があるのだけども、現象に意味を付与し解釈を行うのはあくまで私なのだ。
こうした感覚は客観的なものばかりを追っていると気付かないような感覚だね。二階堂奥歯自身の言葉も引用しておこうか。
私は大きな物語が終わってから生まれました。
(中略)
存在価値を支える外部は最初からなかったのです。そんな私の存在を支えられるのは私と、私によって支えられている私的な価値体系・物語・信仰です。
(中略)
やりたいことがないわけではない。しかしそれを位置づけてくれる文脈はありません。
私の目標の根拠は私自身なのです。
『八本脚の蝶』2002年3月18日(月)
■文章紹介
最後に上記で紹介しきれなかった二階堂奥歯の文章で私が好きなものを紹介してみる。
「神」を信じさえすれば楽になるということは重々承知なのです。
でも、そんな操作をして楽になるのって欺瞞だわ。
(中略)
「神」のくれる幸福をかいくぐって、どこまで行けるかを知りたい。
『八本脚の蝶』2002年5月30日(木)
私の「信仰」は「神」よりも強い。
「神」を「信じて」いる?
まさか。「信じて」はいない。
「信仰」ではなく「意志」。
でもそれがどこへ向けられているか、私は知らない。
『八本脚の蝶』2002年4月3日(木)その1
骨くらい折っていいのにその指で本の頁を捲る手つきで
願はくばあなたが蛇口捻る時金魚となりて零れ出でたし
あの人が住む方【かた】より吹く風なれば風吹くだけで腫れる唇
『八本脚の蝶』2002年11月8日(金)
「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。
『八本脚の蝶』2002年12月5日(木)その1
前半二つはこれまでに解説したような内容。三つめは俳句。「目にした後にどれだけ記憶に残っているか」は私の中で俳句の評価基準となっているのですが、これらは長いこと私に残っているので良い句です。最後は「人間性」についてのとても大胆な主張。これは以下のような二階堂奥歯らしさが出ていてとても良い。
物語の登場人物にさえ人権を認めかねない二階堂奥歯
『醒めてみれば空耳』『王女』さま、なに見てるの
以上です。自分が好きなものについて語るのは虚無感と戦う方法の一つなので、今後もこうした記事は書きたいです。