日記(これは読み手にアピールする気の無い無個性なタイトル)

書くか... …久々に日記を。
最近はダラダラと怠けてばかりいるのですが、自分のそうした現状に恥ずかしさを感じない程度に無神経になってきたので、本当にどうしようかしらという状態です。

あらゆる価値判断を保留して、目の前に広がる複雑さを前に何かを決めつけることなく佇み続ける態度を規範的な態度だと思っているのですが、それが自分のことを無際限に許してしまう今の状態を招いている気がしてどうしようかという感じです。ここで規範的な態度という言葉を使いましたがより正確には、自分はそれを良しとしており、それを抱いて破滅する事に対して「然り」と言えるので、わたしのことは放っておいてくださいと言いたくなるような態度ぐらいの意味です。他人に対して説得可能な普遍性を有している意味での規範とは無関係で、自分自身の振る舞いを基礎付ける主張としての規範、どこまでも私的な意思決定と覚悟のようなナニカという意味で使ってます。

まぁなんというか他人の忠告めいた言葉が全然内に響かない状態という感じですね。(任意の意見、主張、意味のある文章)に対して「あなたにはあなたの人生の文脈があるのでしょう。かわゆらしいです。わたしもそうです。」程度の一言で片づけてしまう傾向があり、よくない。射程が広すぎる一般論を解答として用意するのは、無内容だし止めた方が良いと思うよって前から言ってるよね。はちゅみちゃん。

へらへらふにゃふにゃして「破滅」を受け入れてと言いながら、具体的に破滅がどのような状態であるかの想像が全然付いていません。安全圏から出たことが無い人間の想像する「破滅」なんてどうあっても似非でしか無いのにとか突っ込みながら、それ以上考えないようにしています。おそらくだけど自分に突っ込みを入れる行為をメタ認知だと見なしており「メタ認知出来てれば大丈夫ですよねぇ???」みたいに思っている気がする。それが出来るからって何だって言うんだ。

状況という外圧によって強制される事によりどうにかしないといけない状態になるまでは、どうにも出来ないのではという予感があります。でもその瞬間を上手く捕まえられずに大丈夫だろうと思っているうちにどうしようもなくなる可能性のほうがありそうで厭だな。どうにかなる可能性を考えるとすれば、生きた人間が生きた人間に執着する時に発揮出来る力というのが、モノスゴク強力な原動力になってくれるというのは人間関係2年生ぐらいのときに理解した事なので、こうした力を平和的に利用できたりしたらいいですよねー、とは漠然と思ってます。

自分の生存がもはや余生に突入していると思っている節があり、何かを成し遂げたり獲得したいといった積極的な願望よりは、怒られたり理不尽な目に合いたくないという消極的な願望の方が圧倒的に強い気がする。(これは自分の現状に合わせて認知が最適化された結果というだけかもしれないという突っ込みを入れたくなるけど、でもそれと独立の客観性という社会的な総意にどこまで権威を認めて内面化すればいいのか分からないということを悩んでるんだよおれは。)

行動に移す暇もないくらいの一瞬だけなら誠実でいられるのだなぁというね。


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