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雲中一雁

  皺のすくない、つるんとした膚(はだ)。色白のためか、頬にさす赤が目についた。
 子どもの頃から何度も絵本を開いて、でもお顔を見たのはそれが初めて。テロップによれば、9年前の映像とのこと。そのひとは、もうこの世にいない。
 画家、絵本作家の安野光雅さんがご出演なさっている番組を見た。
 ははあ、これがクマサンか。
 高峰秀子氏が随筆の中でふれていたとおりの大きなお腹に、うなる。太い指がつまむ絵筆はさらさらと、繊細な点と面とを次々に生み出す。淡い色と暈けた(ぼやけた)タッチのそれは、線と呼ぶにはすこし幅が広い。
 ……どこに行っちゃったかと思ったら、トイレにいた。
 ライフワークたる「旅の絵本」シリーズの9作目、『旅の絵本 日本編』の冒頭。シリーズでおなじみの主人公は、まさかの公衆便所からの登場となった。カメラに向かって冗談を言う口ぶりも、奥の奥には硬さがある。少年というよりは、少女のそれ。
 自分の聖域には、きっと誰をも踏み込ませない。優しくて、おおらかで、世間の雑事には気を止めない、それは全部ほんとうで、一方大切なものにはひどく潔癖なひとなのではないかな、と思う。お顔だちもどちらかといえば女性的で、ことに口元は亡くなったうちのおばあさんに似ていた。
 その安野さんが大切にしておられる言葉が、番組のタイトルにもなった。
 雲中一雁(うんちゅういちがん)。
 かつて、中国を旅したときに現地のひとに聞いた。意味は、よくわからない。ただ、群れにはぐれて一羽で飛ぶ雁のイメージが、自身に重なった。
 頼るひとも、またおもねる相手もいない孤独。それでも、安心立命の境地にある。
 日本語のプロたるべき仕事に就きながら、安心立命がわからない。頭をかきかき、辞書をひく。
 天命を知って、こころやすらかなこと。
 若輩者の胸に、響く。

 あこがれのひとは、よく「天」ということばを使われる印象がある。
 雀鬼・桜井章一氏、バリの大富豪・丸尾孝俊氏、やまがみ石鹸のりんたん(森山倫亘)氏。この並びだけで、吉本ばななさんの重篤なファンだということがばれてしまうが、仕方がない。
 三氏に共通するのは、他者にひらいていること、自身に執着しないこと。これは、おなじことを繰り返して言っているだけかもしれない。 
 自身の欲に身をまかせず、天のさだめにしたがって生きる。
 おそらく今の世の中では、なかなか口に出しづらい。自分の世代でいうところでは、電波、などと表現されてしまうかもしれない。
 それでもなぜかしら、ふかく頷き、こうべを垂れてしまう、そんな言葉と思う。ゆだねることはなによりこわいと、信じているからかもしれない。
 世界を見る目が、今よりずっと低い位置にあった頃。夢を描き、目標を立て、みずからの手で運命を作り出すのがよきことである、と教わった。そうして、疑わない。
 からだが動かなくなるのは、もしや、こころを鋳型にはめたせいではないか。あたまのすみに浮かぶ考えは、そのたび力ずくで打ち消して、ここまで来た。
 そのやり方に限界が来ていると、ほんとうはもう知っている。

 ひとが楽しそうにしているのを、見ていたい。その輪の中には、入らなくていい。きみが、あなたが、あのひとが、幸せでいるための手伝いをしたい。やりたいことは、庭師に似ている。水をやり、草を抜き、喧嘩が起きれば、どうしたの。からまった糸をほどいて整え、また輪から外れて、満足。
 今の仕事場では、マネージャーの才を見出してくれたひとがいた。それで、組織の中ではたらくのが向いているのだろうなと、思っていた。
 ほんとうにそうか。見ないふりしていた疑問が、頭をもたげる。
 今も、その前も、そのその前も、勤め先はよくよく選んだつもりでいた。明るく元気に、ひとのため。求人雑誌に踊る言葉の先に身を置いて、いつも最後は、物別れ。人当たりのよさでお客に人気の、老舗の鮨やの大将とおかみさんが、職人さんをひととも思わない対応をしていたのを見たときは、びっくりした。あれはいい勉強になった。
 同じ目線でものを見られるひとと、働きたい。その気持ちに、変わりはない。
 ならばそのためには、まずひとりにならなければいけないのではないだろうか。ひとりで歩けるようになったその先で、出会える仲間がいるのでは、ないだろうか。
 今年度は、頑張ります。いままであなたが守ってくれたたくさんのこと、自分の目で見てからだで知って、とにかく、闘います。そう約束した。 
 では次の桜が咲く頃、どこにいるか。
 貯金はなく、盲目の猫がおり、住宅ローンを抱えている。こころは脆い。健康状態もやや危うい。
 安心安全安定を、もとめるのが正解なんだろうな。
 そう思って、ため息つきつき、青色申告のやり方を調べている。
 勤め先のある身分のうちに、保険に入っておいたほうがいいそうだ。

 群れからはぐれようと意図してはぐれる雁は、どのくらいいるのだろう。
 一羽で飛びつづけた安野さんは、今はどこの空の下におられるのだろう。
 

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