蕗の花咲く
小学校の5年生か。6年生だったかもしれない。
担任の先生は筆まめな方で、クラスのおたよりをプリントゴッコで頻繁に刷ってくださった。プリントゴッコがわからない方は、あとで調べてください。物知り辞典、ウィキペディアによれば、家庭用簡易孔版印刷機。
お餅つきの列に並ぶみたいに、ぺったんぺったん、順番に自分のノートにおたよりを捺して、列を離れたとたんに目を輝かせ、読む。行儀よく並んだ小学生たちは、思い返せばとても可愛い。
たしか、学年が上がる少し前。いろいろなランキングを出してみようということになった。将来、総理大臣になりそうなひと。このクラスでの、一番の思い出。それから、素敵と思うひと。
総理大臣が何をするひとかはわからなかったけれど、憧れのひとはいた。
コズエちゃんは、とにかく明るい。まあるいほっぺとよく通る声でいつもクラスの中心にいて、男子たちは、いつも、たじたじ。
コズエちゃんみたいになりたいです。一文字ひともじにそれ以上の思いはこめられなかったけれど、今から思えば、だいぶ切実だった。どのくらいかというと、当時、架空の友だちと交換日記をしていて、そこにも何度も書いていた。
そんなに暗い子どもだったか。本人はそう思っていたのだろうな、という以上の感想はない。現実の世界にも、お友だちはいた。ただ、言いたいことが、伝わらない。すべてをあけすけに話すことが、できない。なんだかんだで苦しかった気持ちも、ぼんやり覚えている。
自信を持てないときほど、行く末を考える。自分は他人にはなれないから、自分のままで、こうなっていこうと絵を描く。なのに、そこを目指そうと思うほど、手脚はなよなよして力が入らない。
他人になろうというのでもないのに、なんでできないんだろう。数かぎりなく傾げた首は、吉本ばななさんのご著書で、いっぺんに元の位置に戻る。
平良 ホ・オポノポノでは、ほとんどの場合、自分が「ほんとうの自分」だと強く信じているものこそ、じつは「記憶から見せられている」と言われています。
しかし、ホ・オポノポノの「ほんとうの自分」とは、
"クリーニングして記憶から解放された状態で現れる、丸裸なありのままの自分で、意識もしないうちに表現される部分"
だと。だから、前者のほんとうの自分は「理想の自分」。ただ「記憶」から見せられている、真実から離れたところにいる自分。
吉本 自分から切り離された存在として思いこんでいる、「空想の中のほんとうの自分」ということですよね。
ー吉本ばなな・平良アイリーン『ウニヒピリのおしゃべり ほんとうの自分を生きるってどんなこと?』
おとなしいとか、しっかりしているとか、言われることが多かった。極めつけは、大切な友だちが、可憐な花にたとえてくれた。それで、自分はこう見えるんだな。ならばきっと、そうなんだ。何事も一心に思いつめるたちに加えて、周りとの調和を保ったまま、善くありたいという気持ちが強い。
そうして決めた空想の中のほんとうの自分は、つつましく、穏やか。
今がノイズで汚れているだけだということにして、それを払うことに心を傾ける。長く付き合ってきた数かずの不調和は、丸裸なありのままの自分の悲鳴だったのかもしれないと、ようやく気づく。
字を書いて、発表する。はじめましてのひとと、お話をする。ひさかたぶりの身体の動きは、どんどん、ほんとうのうそを剥がしていった。
ひとの言葉に想像を重ねて、くよくよする。おほめの言葉をいただけば、天にも上る心地になる。思いの振れ幅は常に大きく、あれ、思ってたのと、なんか違うぞ。あらためて来し方を振り返ると、つつましくも穏やかでもない姿ばかりが浮かぶ。
おおらか、親分、おおざっぱ。トラブルに見舞われたほうが、よっしゃやることができたぜと元気になる。ごーっと燃えて、なんとなく難所は乗り越えるけれど、かんじんなものは手からぽろぽろ落として、気づかない。結局、優しい方に拾っていただいて、なんとかやってこられた。
これは誰でも知っている方と思ったまでで、雲の上の方のお名前をあげることをお許しください。たとえば宇野千代さん、林芙美子さん。系統でいえば、あっちのほうかなと思う。いつか、岡本かの子さんが、執筆に集中するために、息子の太郎さんを柱に縛りつけていたというエピソードを読んだ。なんてひどい、と眉をひそめる方が大半と思う。正直に言う。やりかねない。
情熱一番、礼儀は二番。三、四がなくて、五はなんだろう。
またそうやって決めそうになる。だめだめと首をふって、忘れる。
頭でっかちにならない。それがいま一番、したいこと。
反射的に考え、行動し、振り向かない。そのかわりそれで生じた痛みはみんな引き受ける覚悟をする。未来のそのときの自分が絶対なんとかしてくれると信じる。そのためには、ふだんからおのれを信じられるよう、自分をだらしなくさせるものに接しない。
それが心の断捨離だろう。
―吉本ばなな公式サイト/日記/2013年12月
http://www.yoshimotobanana.com/diary/2013/12/
自信がなくて、好きなものを好きと言えない。言う資格なんてないと、思っていた。人間、同じことばかり考えていると、ある日たがが外れるらしい。あるときふっと、どうでもいいな。何よりも、堂々と好きと言うほうが気持ちいいな。じゃ、そうしよう。悩みの終わりは、いつも拍子抜けするほどあっさりしている。
今思って、動くことがすべて。それは、想像するとこわいけれど、その瞬間は意外にこわくないのは、もう知っている。こわくするのは小さな脳みそが世界に投影したまやかしで、それはこの頭の中にしかない。
おせじにも、人づきあいが上手とはいえない。だから、またたくさん傷つくかもしれない。
それは、そのときの自分に任せましょう。ごめんね、がんばって。たぶん、なんとかなるんじゃないかな。
本日から、二十四節気は大寒(だいかん)、七十二候は款冬華(ふきのはなさく)。一年で最もきびしい季節、地面には春のきざしがあらわれている。花はただ花とながめて愛でて、意味は与えず、前を向く。
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