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天文学者になりたかった私の、人生の途中までの答え合わせ【#想像していなかった未来】


無謀な夢をもっていた学生時代


私は、絵本のテキスト作家や童話作家を目指して活動している二児の母。

子どものころは、現状とは対極のような夢があった。
それは、「天文学者になること」。

星を見ることが大好きで、夏休みに、飽きることなくペルセウス座流星群を数えては、心配性のおばあちゃんを眠れなくした。

図書館で「宇宙」と名のつく本を読み漁り、今度は自分が眠れなくなった。


私が一番に、宇宙の謎を解明したい。
その思いは薄れることなくすくすく育ち、高校の文理選択では、もちろん「理系」を希望した。
数学や物理が大の苦手で、いつも赤点ギリギリ。逆に国語は、学年トップだったというのに。(もうずいぶん昔のことなので、小さな自慢を許してほしい)

そのまま、天文学を学べる理学部や、物理学科を志望して大学受験に臨んだ。

結果は、第一志望には不合格。

「理系ができないくせに、天文学者になんか、なれるわけないだろ!」
不合格の文字が映し出されたガラケーの画面に、そう笑われたような気さえした。


我が家は母子家庭で、浪人する余裕はとてもなかった。
家計的に私立を選ぶこともできず、かつ自宅から通える範囲の大学しか、選択肢はない。
しぶしぶ、後期試験で合格した、第二志望の大学へと進んだ。

そこは「物理」とは学科に名前がつくものの、その前に「教員養成課程」との前置きがある。
物理を学べはするものの、あくまで先生になるための学部だったのだ。

そこが夢に手を届かせるために辿り着けた、ギリギリの場所だった。



不合格だったから出会えた、新たな夢


その大学に通ううちに、新たに知った世界があった。

きっかけは、大学の近くの喫茶店でのアルバイト。
「あなた、笑顔がいいわね」
「いつも、気が利くね」
とあるお客さまが、私に向けて、思いもよらない言葉をかけてくれた。

すっかり自信を失っていた私の日々が、色づいて見えた。
それから、授業の前にはモーニングのアルバイトでひと汗かいて、研究のあとには閉店まで入り、気の良い常連さんたちと、いつものやりとり。

私でないとできないことが、やっと見つけられた気がした。

宇宙の謎を解明するのは、世の天才に任せておけばいいかな。
そう吹っ切れるほどに、接客の魅力にのめり込んでいった。



人生の答え合わせが始まる


そして私は、希望を胸に、結婚式場に就職した。
物理系のコースを出て、教員免許を取ってまで……である。
ウェディングプランナーになるなんて、大学に落ちた数年前には、夢にも思っていなかった。

その後8年勤めたが、またも、大きく状況が変わるときが来る。
まず、子どもを産んだ。
そこまでは良かったが、育休復帰後の、預け先の頼りにしていた実母が急逝し、とても正社員を続けられる状況ではなくなった。

大好きな仕事を泣く泣く退職した私は、抜け殻のようになった。

母がいなくなった上に、保育園のない日祝にも勤務が必要な接客業には、もう、就くことができないなんて。


そんな日々でも、育児は待ってはくれない。
なんとか外の世界とは繋がっていたくて、子どもを連れて足繁く、近くの子育て支援施設に通った。

すると、その施設のスタッフの方と懇意になり、パートの先生として、平日だけの勤務で拾っていただくことができた。

それは、教員免許がないと就けない仕事だった。
あのとき大学に落ちて教育学部に進んだことに、意味があったなんて。

まるで、人生の答え合わせが始まったかのようだった。



「書くこと」との出会い


そのまま今も先生を続けているのかというと、そうではない。
二人目の子どもが産まれ、さらには遠地への引越しもあり、その仕事は退職。

私はまた、自分が空っぽになったように感じた。


ずっと、がんばっている自分が好きだった。
必死に勉強したり、お客様に尽くしたり、子育てしながらも働いたり……。

それなのに、なにもできない今。
ふにゃふにゃの赤ちゃんと、やんちゃ盛りの上の子を抱えて、知り合いの居ない土地で、ぽつり。
「育休中」「求職中」という肩書きですらない。

子育てで、十分がんばっているでしょう? という声も聞こえてくる。
たしかに二人の子どもを、夫以外に頼る先もなく育てるのは、なかなか大変だ。

でも、30歳を過ぎて、そろそろ気付いてきた。
私は、すごく欲張りな人間だ。


何かしたい。

いつだって、何かしていたい。

何者かに、なりたい。


子どもを寝かしつけながら、毎日のようにぐるぐる悩んで、ひとつだけひらめいたことがあった。

そうだ、私、国語だけは得意だったじゃん。

子どもの寝息が聞こえてから、スマホで「文章 コンテスト」などと調べてみると、そこには、昨日まで知ろうともしなかった世界が広がっていた。

キャッチコピー、川柳、俳句、小説、エッセイ、絵本、童話……。
ひしめき合うように、多種多様なコンテストがこの世には存在していたのだ。

そうして、私が応募を決めたのは、とある絵本のストーリーのコンクール。
いつも絵本を読み聞かせしているので、取っつきやすいというシンプルな理由からだった。

夫と子どもに話すと、おはなしのアイデアを一緒になって膨らませてくれた。
私の挑戦を、喜んで後押ししてくれたのだ。

最優秀賞に選ばれれば絵本化されるというが、応募しただけで心が満たされて、結果発表がいつなのか、調べてもいなかった。



信じてくれる人のおかげで、進んで行ける


その知らせが届いたのは、台所でお味噌汁を作っていたときだった。

お昼寝している下の子を起こさないように、レターパックを受け取る。

その中の通知を見て、へなへなと腰が抜けた。
人は本当に驚いたとき、本当に腰が抜けるのだと、このとき知った。


まさか、最優秀賞に選んでいただけたなんて。


それから私は、とんでもなく調子に乗った。

子ども達から閃きをもらいながら、次々と絵本テキストや童話のコンクールに応募した。
夫にアドバイスをもらいながら、初めてエッセイを書いた。
今まで、どうやって暇を過ごしていたのか思い出せないくらい、書いた。

そうして結んだのは、ありがたいご縁ばかり。
ライターとしての活動も始め、今では書くことを仕事にしている。



人生の答え合わせは、まだ続く


天文学者を夢見ていたころの私に、ここまでの人生を説明をしたら、「そんなふうに進むわけないじゃん」と、きっと呆れることだろう。

ウェディングプランナーを辞めて失意のどん底にあった私に、「数年後に、絵本が出るよ!」と言ったところで、
「意味が分からない。詐欺にでも遭っているんじゃない……?」と、一蹴されるだろう。

それほど人生は、どうなるか、全く予想がつかないもの。

けれど今、振り返って思うことは、人生を変えていくのは、決して一人ではできなかったということ。


接客業に導いてくれた、喫茶店でのお客さまとの出会い。
先生として拾ってくれた、子育て施設でのスタッフさんとの出会い。
作品になにか光るところを見出してくれた、選者の方たち。
私の創作を応援してくれる、大切な夫と子どもたち。

私の可能性を信じてくれる人が居る限り、人生はこれからも、想像していない未来を見せてくれるのだと思う。


1年後、10年後、20年後、30年後……。
人生の答え合わせは、これからも続く。

すべてのことに意味があったと、いつか思えるのだろうか。

人生の最後に「やりきった!」と笑えるように、これからも走り続けたい。

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