見出し画像

雑記3-5:コンテンツには生死が纏わりつく話/「冥福を祈らせてもらえる」ことをありがたく思う話

先に夭折の報を聞いてから、その人の作品に触れるとき、どうしてもコンテンツをそのまま受け取ることが出来ない。作者が若くして(≒自分と同じ年代で、自分が高い解像度を持って体感している年代で)亡くなっていることが、コンテンツに触れる際に必ず立ち上ってくる。これは病死でも自殺でも他殺でも事故でも、必ず。

自分は何度も死を選ぼうとして、最終的に選ばなかった人間だ。
「生きたくても生きられなかった人がいるのに」「もっと辛くても生きている人がいるのに」と思われそうだし、そもそも大っぴらに話すことでもないのでほとんど話していない。もっとも、上記のような「~のに」については、だからなんなんだよと思っている。辛さは他人と比べるものではないし、生きたくても生きられなかった他人が存在することによって自分の生存が固定されるのはおかしい。ちょっと前にTwitterで、「矢が1本刺さっただけで泣きじゃくりみんなから心配されている少女と、矢が何本も刺さっているのに泣かずにいるために心配されない少女」の対比のイラストが流行っていたが、あの描き方がとにかく嫌いだった。矢が1本刺さっているんだぞ、泣くだろ。矢がたくさん刺さっている人が辛いのは分かる。でも矢が1本しか刺さってない人"より"辛い、というのは分からない。その一本がどれだけ苦しいかは、結局当人にしか分からない。

話が逸れた。若い年代で「死を選ぶこと」を強く意識して、最終的に生きることを選択した自分のような人は、たぶん、夭折した人の作品を、死を意識せずに見ることが出来ないんじゃないかと思う。主語が大きいかもしれない。サンプルサイズは1だ。自分だけ。

ぽわぽわPの『さよーならみなさん』を聴いた時。不可思議wonderboyの『Pellicule』を聴いた時。笹井宏之の『えーえんとくちから』を読んだ時。
そして今日、酸欠少女さユりさんの『花の塔』を聴いた時。

『リコリス・リコイル』を見ておらず、『花の塔』は、先程さユりさんの訃報を受けて聴くのが初めてだった。爽やかで軽快ながら、力強い曲だった。聴けて良かった、と思う。この人の曲を知れて良かったと思う。

さユりさんについても、申し訳ないことに訃報で初めて知った。だから、亡くなったことがとにかく悲しくて仕方ない……のとは、違うと思う。今初めて知った人に対して、そういう風に思う資格が、自分にはないと感じるから。もっとさユりさんについて知っている人だけがその資格を持っていると思う。ニュースで日々多数の訃報に接するが、「自分は悼む資格があるのだろうか」と感じることが多い。大抵は無いと思っている。

一方で

さよーならみなさんも、Pelliculeも、えーえんとくちからも、花の塔も、
触れたとき、どうしてか泣いてしまった。どうして泣いてしまうのか、分からない。悼む権利が無いと思っているのだけど、泣いてしまう。この感情はなんなんだろう。「悲しませてほしい」のかもしれない。自分はそんなにこの人について知らなかったから悲しむのは変かもしれないけど、悲しくて、でも自分が悲しいと書いたり言うのは変に感じるから、行き場を失った「悲しさ」が涙の形で現れている、ような気がする。

こういうとき、「冥福を祈る」という概念があることに感謝している。
「死後の世界があるとして、亡くなった後のあなたが、どうか幸せでありますように。」
冥福を祈ることは、多くの場合(自分が直接の加害者で、「どの口が」となったりしない限り)、広く、許されている。許されているように思う。

私はあなたの(少なくとも生前の)リスナーではなかったけれど。あなたが居たこと、何かを残してくれたことを、ありがたく感じているし、おおっぴらに言う資格はないかもしれないけれど、悲しいです。だから、冥福を祈らせてください。

あなたのこの先がもしあるとするならば、どうかそれが、安らかなものでありますように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?