noteに書いていきます

今日は僕がダンスを始めた頃の大阪のダンスシーンについてお話しします


僕が高校生の時に読売テレビ系で始まったある番組

天才たけしの元気が出るテレビ!!

その中で始まった1コーナー。それが

ダンス甲子園

でした

何もやる事がなく、空手部に在籍し、アメリカンフットボール部の友人の応援に回るという普通の高校生活を送っていた僕には衝撃的でした。毎週日曜日の夜8時を楽しみに家に帰るようになりました。そういうことはなかなかないことでした。
当時は携帯電話もなく、ポケベルしかないような時代ですので情報源はTVが99%。
週によっては放送がない週もあったのに家に帰って楽しみにTVの前で待っていました。
まず最初に衝撃を受けたのはやっぱりLL Brothersでした!!

特に矢間(ヤザマ)兄弟のお兄ちゃんがやばすぎて。。。

それかられいかんやまかんとんちんかんの田中くんとか。
まあとにかく真似しまくりました。コピーですよ完全に。

初めて人前でストリートダンスらしきものを踊ったのは高校2年生の時、沖縄旅行に友達と行った時に行ったDISCO"ピラミッド"でした。なぜかホットパンツレベルで短いパンツでランニングマンしてた覚えがあります。笑

そして大阪は1990年はまだまだユーロビートが流行っていました

DJもたまにBobby BrownやBlack Boxなどをかけていました。
高校生のパーティーでランニングマンが踏めたら神でした。モテたもんでした。
そしてそんな中でたまにゲストですごいダンサーがたま〜に呼ばれてゲストショーをするんです。
今なら当たり前にSHOWイベントがたくさんありますが昔はほぼありませんでした。
知り合いがやるパーティーで顔見知りのよしみで踊らせてもらうという類のものが多かったです。

DJにHipHopをかけてもらう時(リクエスト)は「ブラックかけて〜」って言っていた時代でした。
ブラックミュージックと言っていた時代でした。

1990年当時はHipHopダンサーといえば男子ばかりでした

岡山に1人だけ上手い女の子がいて有名でした。
そんなレベルです。私の通っていた大学ではダンサーは僕だけでした。
今では考えられないレベルですよね?
そして大学でダンサーの服装で歩いていると浮くような時代でした。

当時ストリートで踊る人はほぼいなくて、踊る=DISCOかclubで踊るという感じでした。

1990年あたりから大阪ではDISCOからクラブに変わっていった時代でした。
サーファーブームが来たり(Fineが流行)で少しDISCOにオシャレして行くというよりもカジュアルな服装で誰もが行けるDISCOのようなものでした。僕が行っていたのは江坂のフィラデルフィアかミナミのトリコロールでした。
その後、ダンスにどっぷり浸かるようになり、ドゥーヤやシャンバラなどに行くようになりました。
そこには大阪の父、Wild CherryさんやOne on Oneのメンバーなどもいました。
僕のホームグラウンドは法善寺横丁のすぐ近くにあったGroove Circusというクラブでした。
そこでDJ KoohさんとテツくんのPlayで育ちました。
時代はHipHipの黄金期でしたのでなんでも新鮮でした。
Leaders of New SchoolやDAS EFX、LB'sなどもう聴く曲が全部新しかったんです。

なので当時のクラブは今でいうFunkよりも新しいHipHopかベタなダンクラがかかっていました。

すごい時代でした


週末はサーカスで踊り、日曜日はあるクラブに色んなチームのダンサーがNew,Old関係なく集まってきていました。今では考えられないですが、イベントでもなく新旧問わず集まっていたクラブがあったんです。

それがclub QOO

クーというクラブです。
みんな若い子は身分証明書を偽造したり、お兄ちゃんの保険証を借りて見せて「写真付きじゃないのでダメです」と言われて帰されたり入るだけで色んな事がありました!!笑

QOOは1Fで身分証のチェックを済ませるとエレベーターで7階に上がります。
エレベーターが上がって行くにつれて音がどんどん大きくなってきます。

そしてフロアに降りるとクルーごとに四角い大きな座るタイルのようなところに座ったりフロアで踊ったり、奥のドリンクカウンターで飲んだりその前の鏡で練習したり様々でした。

ここで色んなチームの人たちと情報交換したものでした。

One on One
カラーズ
エレクトロポーズ
ヨーボー
ラバーボーイズ
Soul Staff
D-Troop
Osaka Gang Stars(当時はOrientalではなかった)

まだHipHopのチームがまとまってきてる印象はなかったです。


とにかくここでの情報が全てでした。
ここで最新の噂と不確かな情報をそれぞれの地元やクラブに持ち帰り練習したりビデオを見せてもらいに情報通のダンサーの家に行ったりしてまた日曜日にQOOに集まる。というサイクルでした。

それから少しして金曜日のアンテナというクラブができて(グランカフェの場所)、金曜日はここにみんなが集まりだしました。そこでダンスディライトが始まったのです。

1991年にクラブアンテナで始まったダンスディライト。

1回目はひさしさんというOGの教え子である" RYO "と" ゆうひ "そして泉州の不良ヒロキ、赤井の

ともだち

というチームがダントツの優勝。

当時流行していた腰パンにスキンヘッドのRYOのインパクトとスキームチームというLAのHipHopクルーばりのアクロバットを駆使するヒロキたちの組み合わせが抜群でした。それを見てた僕も挑戦を決めて第2回大会で優勝しました。その時に参加していたのがSOOSのキムさんやBRONXの前身のチーム、前原ちさとかよの"せきはんず"など。

当時はダンスディライトが主流という訳ではありませんでした。

やはり当時のダンスといえばみんなが今一番熱いと言われているクラブに

「今日あそこ○○さんが回すらしいで」とか

「今日あそこにあいつ踊りに来るらしいで。見に行こか?」

という家にある電話機で話して得た情報が主流でした。(もしくはポケベル)

このあたりから大阪のダンスは二分していった気がします

以前からクラブやDISCOで踊っていた音楽を楽しむダンスフリークと

ダンスコンテストに力を入れて目立つため、勝つことを目的に振りを作りチームで一体となって頑張っていくタイプ。

そういう言わば

現場系

ディライト系

とにわかれていました。1992年当時クラブいた人なら絶対にわかる話ですね。

東京は顕著で、ディライトに出るやつはダサい

と言われていました。

今なら信じられないでしょうね?

そこから徐々にDISCOは衰退し、クラブ遊びもだんだん落ち着いて大人になり足が遠のいていき人気店も閉店が続きます。

しかしダンスは生き残ります。これはADHIPの功績だと思います。

踊る場所というのはそもそもクラブでしかなかったし見られるのは上手くておしゃれでCoolな人だけでした。

悪い言い方をするならダンスコンテストやSHOWイベントなら誰でも人前で踊れるのです。

そしてどんどんダンスをする人は増えていきます

そしてダンスディライトや小さな新進気鋭のイベンターによるアングライベントにより

ダンスの火は消えずに続いていきます。特に大阪は東京に比べてコンテストが多かったです。

やはりADHIPが色々仕掛けてましたし、それが標準になっていたんでしょう。

大阪でダンスといえばダンディラでした。

チームだと

どんたく

やすらぎ

EXIST

ブロンクス

ロットワイラー

JIG

Style Of Old School

バタフライ

など。

一方、一般のダンスクラブは本当に下火でした。

唯一アンダーラウンジでSOUL FREEというモンスターイベントがありそちらにアングラ系のHipHoperは行ってました。

その頃はバトルイベントは全くありませんでした。

自然発生するクラブでのバトルのみでした。

喧嘩になる前提でやってました。僕も実際バトルの後そのまま裏に行って喧嘩してるのを何度も見ました。

それからほどなくして今はなき海遊館の横にあったベイサイドジェニーというクラブでOld School Nightが始まります。

このベイサイドジェニーは珍しいクラブで、警察が来ないクラブでした。というのも管轄が海上警察なんです。

理由は建ってる場所が桟橋の上だったんです。

脱線しました。当時のOSNはバトルはステージで10人ほどが一斉に一緒に踊る予選で、2階から審査員が選ぶという時代でした。

そして予選を通った人が1人づつ踊って審査されるソロコンテスト形式だったんです

2000年を過ぎたあたりの大阪は今から考えるとすごいダンサーが多かったです。

3D CREW、co-thkoo、JAM、Hilty&Bosch、SOOS、Def、Electric Trouble、BRONX、一撃などが同じ時期にいたんです。

JAPAN DANCE DELIGHTも3DやHiltyやDEFが優勝、BRONX、JAMが準優勝など大活躍。

関東は電撃チョモランマ隊の優勝など実力派もいながらやはりメインは当時は

メインストリート

というイベントだった気がします。

そして徐々に広まってきたダンスシーンですがこのあたりから一気に流れが変わってきます。

それは関東ではもっと以前からあったΣ(シグマ)というダンスサークルの団体。

それに似たものが大阪でもできます。

ZIETHというHOUSEダンスチームのリーダーの翼が主になり作った

シンボル

というイベントです。

この団体の出現で大学生ダンサーが関西でも急増するきっかけになります。

それに続いてある企業のキャンペーンのコンペに通過して得た賞金を元に創設されたBUZZ STYLEも始まります。

そして2005年あたりから始まるもう一つのブームがあります

爆発的にダンススタジオが増えだしたのが2004年あたりから。

2002年あたりから有力どころが出来て(A-sh、アリウープなど)大阪でダンスが習える場所がどんどん増えていきます。

そこで徐々に始まったのが

KIDS DANCEブーム

です。

初めてすごいと認識したのは山口のMissy-Pでした。

当時流行していたハーレムシェイクを2人組の子供が踊っていてすごかったんです。あとで聞くと広島のPeetさんの教え子だったらしく「そりゃすげえわ」と

その後、東京でFamilyというダンススタジオのオーナーをしているナカジさんに紹介してもらい

自分のイベントにスペシャルゲストとして東京から" チリドッグ "に来てもらいました。

今のルシファーのかざねちゃんとみらいちゃんです。

もうすごかったですね。

そして大阪にはラッシュボールというチームもありすごかったです。

そして僕もあるきっかけでキッズにダンスを教えることになります。

友人でスタジオDO-UPをやっていたドミニクの発表会を見に行ったことがきっかけでした。

もう衝撃的でした。

大人より全然すごいんです。練習さえ一生懸命やれば子供でもここまでなれるのかと。。。

驚きを通り越していました。

そして帰って決断しました。

「キッズをやってみよう!」と

当時僕はキッズを教えるのが嫌いでして、どうしても僕に習いたいって子たちは大人クラスに来てました。

その子たちの中に時代を変えていくメンバーがいたんです

このへんは割愛しますがキッズが一大ブームになるきっかけの一つになっていたとは思います

そしてMAIKAやKYOKA、ENA、和歌山HOMIES軍団などスーパーキッズたちの台頭もあり関西はえぐいレベルになっていました。

画像1

2012年〜2015年あたりを境に個人的には大阪のダンス界はアンバランスな感じになってきた気がします。

[ 体力は衰えてきたが見る目があるダンサー ]

[ 踊るのは上手いがジャッジにはまだ早いが、ダンサー不足によりジャッジをする若手 ]

これが無理矢理混在し、調和が取れていなかった気がします。

それも今はそういうジャッジ初心者も慣れてきて馴染んできた気はします。

今は大阪には3つから5つくらいに別れたダンス文化がある気がします

・ダンディラ系

・アングラ系 (SDSやFRESH)

・Legend(ナンバー)系

・アライブ系

・大学サークル系

他にも羅列は出来ますがこういうところが交わっていない状態が今です。

なので瞬発力に欠ける気がします。

ダンスディライトが予選は人が少な過ぎます。。。

残念なことです。

個人的にはイベントには絶対必要なイベントっていうものが存在すると思っているんです。このカルチャーはサポートがないと必ず曲がった形で続くか終焉を迎えるかだと思います。

なので皆さんドンドンDANCE DELIGHTに挑戦しましょう!

昔よりは確実に勝ちやすくなってます!

しっかり練習して挑戦しましょう!!

みんなで大阪のダンスを盛り上げていこうではありませんか!!

いつもありがとうございます 一生懸命書いています! 記事のシェアもしていただけると飛んで喜びます よろしくお願いします!