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What is e-sports? #4(全4回) 【哲学的研究】eスポーツとは何だろうか【全文公開】

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0. これまでの記事、その確認

ジェイラボ『表現研』のワークショップ資料として"What is e-sports?" のシリーズ記事を連ねてきたわけだが、一応これで締めくくりとなる。eスポーツとは何かを考えるために、随分回り道をしてきた。

まず、一つ目の記事で、eスポーツと地続きと考えられるスポーツ概念として近代アメリカスポーツについて触れた。そこで、いかに近代のスポーツがマーケティングに基づいてデザインされたものかという論点を提示した。

二つ目の記事で、eスポーツの"e"の部分への接続として、videogame(テレビゲーム)についても検討した。本来なら身体的な性差は関係ないはずのeスポーツであるが、歴史的に見て、まだ一定の性の偏りがあることはやむを得ないという論点を提示し、同時にeスポーツのヴァーチャル性、そしてシェア可能性の高さについて取り上げた。

三つ目の記事で、そもそもスポーツの定義とは何かについて検討し、スポーツにおける運要素の有無は、競技デザインの範疇であり、スポーツの要件ではないという持論を示した上で、スポーツの本質は、試合結果という事実ではなく、試合そのものや試合にまつわる様々なメタ情報(物語)にこそあるという議論を展開した。

以上、これまでの記事をしっかり踏まえた上で、ここから先の議論を一緒に追いかけてみて欲しい。

1. eスポーツと社会、その期待

eスポーツはスポーツ足り得るのか。

一応、この問いが、今回のワークショップのテーマである。

単純にeスポーツとは何かを問うよりも、既存のリアルスポーツとの比較の形にした方が検討すべき論点が増え、結果的に理解が深まると考えた上での問いの設定である。

スポーツの要件については既にこれまでの記事で触れている。そこで提示したスポーツの要件(ルールとゲーム)から見れば、現状のeスポーツは、身体性の程度は低めではあるが、本質的にはスポーツ足り得るものだという判断が下せる。

ただし、である。僕がこれまでの記事で提示してきたスポーツの要件は、本質のみに焦点を当てたものであり、「社会がスポーツに期待するもの」という観点は省いてきた。

「eスポーツがスポーツ足り得るか」という問いを立てる主体は、当然個人としての人間ではない。社会である。スポーツとは個人のレクリエーションではなく社会の機能だ。したがって、本質としてのeスポーツがスポーツ足り得ること自体は理論的に認められるとしても、実はそこで話は終わらない。むしろ、その後の社会との折り合いの問題の方が、eスポーツの今後を考える上で重要である。

つまり、これまで僕が散々記事にして皆さんに示してきた議論は、実はこれからのeスポーツと社会との関わりを考えるにおいて、ほとんど意味をなさない。

しかし、だからこそ、その外堀を先に埋めたのである。

インスタントな議論に慣れた方々は、このような議論の進め方にイライラしているかもしれないが、普段僕がしつこく話している"Think difficult"的な思考法に馴染みのない方のために、敢えてしつこく議論の組み立て手順を踏んでおいた。

というわけで、ここから先は、社会との関わりの中でのeスポーツについて、より具体的に踏み込んで検討していこう。

2. eスポーツと近代スポーツ、その連続性

そもそも、この一連の議論のスタートとして、なぜ近代アメリカスポーツという題材を選んだのか。それはもちろん、今日、スポーツとはプロスポーツのことを指すからであり、最もわかりやすいプロスポーツの題材が近代アメリカスポーツだからである。よりグローバルな競技であるサッカー(フットボール)という題材もあったが、こちらは歴史(ヨーロッパ)的背景が濃いため、素人にはいささか分析の荷が重い。

ともかく、いま社会全体としても、我々がeスポーツというものの存在を意識せざるを得なくなってきている、その最大の理由は何だろうか。言うまでもない。

eスポーツのプロ化が進んでいる

からである。

我々はリアルスポーツを題材にして「スポーツとは何か」を考えるとき、心身の健康であるとか、全人類の平等であるとか、世界平和であるとか、そのためのアマリュアリズムであるとか、その他様々な「建前」を強く念頭に置く。しかし、奇妙なことに、それがeスポーツという話になってくると、真っ先に頭によぎるのは「お金」なのである。

どういうことか。

要するに、今日、我々は「(貴重な自分の)時間を投入する活動」の全てをお金と紐つけてしか見ていないのだ。それはそうだ。今日我々が暮らすこの社会は金融資本主義の世界である。だから、多少なり歴史のあるリアルスポーツには一定の建前の残り香は存在しても、金融資本主義の子宮の中で生まれたeスポーツにはそんな建前は存在しない。

さて、eスポーツの議論が起こるより以前、そもそもvideogameという「遊び」が収益を生む過程に裏付けを与えたのはinternetであり、それを確たるものに固定したのはsocial mediaである。eスポーツという概念をより広義に「videogameにまつわるメディア全般」と捉えるなら、いまやgameメディアが作り出す市場規模はとんでもないものになっている。そして、次の点がかなり社会構造として特異な、ある種「革命段階」的なことだと僕には感じられるのだが、いまvideogameにまつわるメディアは、ある一定の年齢を超えた層やこれまで触れる機会のなかったノンネイティブには、その価値が本質として全く理解されていない。もちろん、ビジネスとしてであれば、数字によって市場を把握することはできるだろうが、「普通に」暮らす50歳や60歳のビジネスマンがネイティブなvideogame streamerやeスポーツ選手の感覚を理解することは、まず不可能だろう。

つまり、ここから先に起こるであろう現象は、歴史と連続性(予測可能性)を持たず、地続きではないのだ。生まれてから死ぬまでvideogameのプレイを職業と認める世界を生きた人間はまだいないのだ。だから、eスポーツが社会装置として今後どうなるかなど、身も蓋もない言い方をしてしまえば、ネイティブでない人間にわかるはずがないし、ネイティブにすらわかる保証はない。無論、優れたマーケターであれば市場の動向予測はできるだろう。しかし、それが人間の社会にいかなる「価値」をもたらすかは、少なくとも、その本質に肌(身体)で触れていなければわかるはずがない。数字は価格であって価値ではないのだ。

とりあえず、いまここで強調しておくべきことは、かつてはただの子供の遊びに過ぎなかったvideogameというものが、いまや極めて集権的な収益構造を形成し得る巨大メディアになっているということだ。そして、eスポーツという観点にとらわれていると気づかないことがある。皆さんはおそらく、トッププレイヤーの賞金が何億円だとかのインパクトの大きな数字にばかり目が行きがちであろうと思う。しかし、僕が現在最も注意を払っているのは、かつてのスポーツが担い、いまや失われつつある公共財としてのスポーツの可能性、中央に集約する収益性とは異なるより小さなコミュニティ形成の核になる可能性、そういう新たな可能性である。

これは、もはや「eスポーツはスポーツ足り得るか」という今回の問いからは逸脱してしまっている。もちろん、問い自体には後で僕なりの答えは提示するが、僕の真の興味はその向こう側にある。

3. eスポーツと公共性、その回復

さて、それでは現代のスポーツにどの程度の公共性があるだろうか。いまやスポーツはメディアの手の中にあるということは既に述べた。つまり、スポーツが今日公共性を保つためには、その担い手としてのメディアがそもそも公共性を保たねばならない。では、

公共性を保つメディアなど存在するのか。

これは、非常に厳しい問いである。公共性とは何かということから考えねばならないので限られたボリュームでいま深入りすることは難しいが、公共「的」と言える程度のメディアはたくさんある。要はユーザーからの(建前上)自由な発信を受け付けるメディアというのは、概ね公共「的」である。ただ、今日そうしたメディアはほぼ全てがオンラインにて私企業が提供するプラットフォームに依存しているため、もちろんそれなりの「建前」は建前として準備されてはいるが、厳密かつ公正な(歴史に晒されてきた)公共性を保つ運用が為されているとはとても言い難い。

メディアが内部表現に一定の規制を敷くことは、人類全体の利益のために必要なことである。しかし、運営母体が私企業であるため、究極の選択を迫れば、全体の利益ではなく運営の利益が優先されることは、至極当然のことである。法律がそれを保証もしている。違法でなければ何も問題ない。

だから、究極的には、ユーザーからの発信を可能としている「民主的な」social mediaが公共財となるためには、理論上、全体の利益を優先するために、運営母体は私企業ではなくならねばならない。しかし、そんなことは不可能である。資本主義の競争を正当に勝ち抜いた、Alphabet(グーグル)に、Twitterに、Facebookに、あるいはその他のsocial media関連企業全てに、所有する全ての財の権利を公共に開放しろなどと命令する権限が、一体誰にあるだろう。いつの日か、もし人類がこの段階を乗り越える日が到来するとしたら、おそらくなにがしかの革命(血)を伴うのではないだろうか。これはまた別マガジンの連載にてそのうち触れたい。

とは言え、僕は今後のメディアの可能性については、少し違う方向から眺めてみている。全体としてのTwitterやYouTubeのような空間には、もはや公共性なんてものは期待できないが、たとえば、SlackやDiscordなどのいわゆるビジネスチャットツールをベースにしたような局所に限定したネット空間には、ルール次第では一定の公共性を持ち込むことは可能なはずである。現状のSlackやDiscordなどのツールではまだ機能的に不十分に感じる部分はあるが、将来的にはインターネット空間内に「地域」を獲得することも一つの方向性にはなり得るはずである。

「公共性」という言葉は、ユーザー(一般大衆)の立場に立つという意味で少し乱暴に言い換えれば「地域性」という言葉とも置き換えられるだろう。少し前から、「eスポーツによる地域おこし」というような言葉もよく聞くようになった。

eスポーツとは、ヴァーチャルな、身体性(物理空間)から切り離された活動であるため、地域という概念と相性が悪く感じる人も多そうだが、地域というものを記号としてうまく処理できれば、オンラインで地域を「興す」ことはそれなりに可能なのかもしれない。そして、参加資格を全世界のユーザーにフルに開放するような活動は、いまやリアルスポーツには不可能に近い(全世界の希望者を参加させるような物理的なキャパシティはない)ことだが、eスポーツならそれに近いことが可能かもしれない。なぜなら、eスポーツは、クオリティを妥協すれば、参加のためだけのコストは著しく低いからである。これは、今のご時世、リモートで働いたり学んだりしていることで、皆が気付き始めていることでもある。現状、eスポーツに公共の概念を着せるところまで真剣に検討している人は多くはないだろうし、それゆえまだeスポーツも全然公共「的」と呼べる段階にはなっていないが、技術的にはいずれきっと開かれるその可能性に、僕は一定の期待をしている。

eスポーツの活動は、当たり前だが、全てがデジタル情報のみで構成されている。よって、eスポーツにおいては、リアルスポーツではあり得なかった「メディアに情報を全載せする」ことも可能になっている。リアルスポーツの場合は、情報をメディアに載せるには、あくまでも現実の膨大なアナログ情報からの切り取りという「編集」が必ず発生するが、eスポーツではその気になれば情報を一切捨てずに全部載せすることができる。大会参加者が何らかのメディアでストリーミングをしていれば、そのアーカイブを寄せ集めることで情報の全てが手に入るだろう。もっとも情報量が膨大すぎるのでイチ個人が全てに触れることはないだろうが、理論上全てをメディアに載せ得るという事実が強烈である。まぁ競技者の感覚までアーカイブできるわけではないが、それもいつか可能になるかもしれない。そして、メディア自体の抱える構造的な問題というアンタッチャブルへのアプローチではなく、情報的に「全てを塗りつぶす」という単なる機械的な方法論の暴力でメディアの公共性を回復しようという可能性を期待できるのは、"e"ならではの特性である。

eスポーツはスポーツの後継や並列ではなく、概念そのものを完全にアップデートして食ってしまうものである、あって欲しい。

4. eスポーツはスポーツ足り得るのか、その解答

ここまでの内容を述べてしまうと、いまさらこの問いはなんだかズレているように感じるが、一応、問いについて検討しよう。

eスポーツはスポーツ足り得るのか。

既に述べたように、eスポーツはシンプルなスポーツの定義を満たすことは可能であろう。しかし、リアルスポーツの持つあらゆる特徴を完全な互換性を保って満たすことはできない。eスポーツは全情報がデジタルであるため、たとえば運の要素をデザインとして取り込んだとしても、運すらも実際にはデジタルな演算に基づくことになる。アナログとデジタルの違いは情報量の差であるというのが僕の私見であり、多くの皆さんも同意してくれるとは思うが、現状我々が持つ計算機の演算能力ではまだアナログをデジタルにフルシミュレーションするところまでは至っていない。したがって、eスポーツはアナログ領域まで含めたリアルスポーツの全てをカバーすることができるのかと問えば、当然できない。そこまで踏まえて、解答をするなら、

eスポーツはシンプルにはスポーツ足り得るが、リアルスポーツの完全互換にはならない。

一応僕の解答はこのような形になるだろう。しかし、既に述べてきたように、僕はeスポーツにこれまでのリアルスポーツをそのまま引き継ぐことなど期待していない。むしろ、スポーツの有り様を根本から大きく変えてくれることをこそ期待している。

だから、

eスポーツは旧来のスポーツとの連続性など持つ必要はない

という、問いの是非ではなく、問いの「否定」が僕の結論でもある

5. eスポーツ、その行方

というわけで、もう、eスポーツをリアルスポーツと重ねて比較検討するのはやめにしよう。eスポーツはリアルスポーツと同じ地平に存在する必要はないのだ。未来に進むのに、わざわざ過去の鎖で自らを縛る必要はない。

では、具体的にeスポーツが今後どうなってゆくのかについて考えてみよう。

社会的な認知度を得るために、おそらくオリンピック種目としてeスポーツを認めてゆくことは一つの目標になるだろう。既にパリ五輪での導入は見送られてしまっているが、どこかの段階でおそらくカネの力で強引にでもねじ込むことにはなるだろう。あるいは、eオリンピックのような独自の国際大会を新しく開催してゆく流れになるかもしれない。

そして、そのような「リアルスポーツの置換としての認知度」の獲得作業においては、ヴァーチャル特有のある種の「暴力表現」はカットされてゆくだろう。これはリアルスポーツとの互換性をどの程度社会が望むかによるだろうが、ネイティブとノンネイティブの交わる初動としてはある程度やむを得ないことであろう。いずれ、さらに時間が経過してeスポーツネイティブが大多数派になれば、そうした暴力表現は暴力とはみなされなくなってゆくだろうとも思うが。

初動としてもう一つ重要そうなことは、競技参加のための要件を整備することであるかもしれない。2018年、とあるeスポーツイベントでプレイヤーが競合プレイヤー二名を射殺するという事件が起きた。別に暴力ゲームがプレイヤーの暴力性を助長しているという、よくある短絡的な話がしたいのではない。そもそも事件の起きたeスポーツイベントは、NFL(アメフト)ゲームの競技大会であり、銃の撃ち合いをする競技ではなかった。だから、「そういうこと」ではない。

身体を晒し合って競技するリアルスポーツと違って、eスポーツにおいては対戦相手はよりピュアに記号化する。したがって、競技者がリアルな人間であるという感覚はどんどん薄れがちになる。しかし、競技をしている本人は紛れもなく人間であるため、様々な人間的感情は当然ついて回る。この事件の犯人と犠牲者は顔見知りであったとのことだが、そうした記号への微妙なリアル成分の混入がさらに感情を刺激したのかもしれない。

ともかく、eスポーツというのは、現状、リアルな手続き、人間関係をすっ飛ばして誰でも参加できるものである。それゆえ、事前に競技者の人間性のリアルな評価などできない。リアルスポーツでは、ある程度の人間関係は求められるため、最低限の人間性は担保される。そもそもリアルにそのスポーツの競技者になるためには、まずそのスポーツを日常的にプレイしたり、指導を受けたりするための何らかの団体(学校の部活動やスクール、ジム、道場など)に所属せねばならない。そこをすっ飛ばし得るeスポーツというものを、今後より「リアル」に扱うには、競技者を競技者として認めるための一定の仕組みは必要になるだろう。

インターネットというのは、黎明期以来ずっと匿名の文化が根強い。かつて社会問題にもなった匿名掲示板というのが、いまなお一定のユーザーを抱え、完全に消滅もしていないことからもそれはわかる。social mediaも匿名アカウントの運用を普通に認めている。

もちろん、匿名ゆえのインターネットの文化というものについては、僕も十分に理解はしているが、それとは別に個人情報(それが現実の住所氏名である必要はないとも考えてはいるが)と紐ついた状態でしか活動できないインターネット空間も必要だろうと僕は感じている。そして、僕は、eスポーツというものが今後一定の公共性を獲得し、資本主義の完全なる玩具に成り果てたリアルスポーツの乗り越えを果たすであろうことを強く願っているが、そのためには、

インターネットにおける個人情報とは何か

の本質的な整備も必要なのではないかと考えている。その人がその人であることを示す情報とは、結局のところ何なのだろうか。それは、現実の住所氏名、戸籍情報なのだろうか。ここについては、僕のいまの考えを全バラしするのではなく、皆さんにも是非考えてみて欲しいところではあるので、今後の課題にしておこう。

6. eスポーツ、そのさらに先

そして、eスポーツが現状の延長で認知度を獲得し、オリンピック競技のレベルで認知され、誰もが当たり前にeスポーツ競技者となり、皆でeスポーツのプレイを共有する世の中になったとしよう。その先、というのはあるのだろうか。

eスポーツとは、究極に広義にとらえるなら、人間のあらゆる活動のデジタル化の過程の現象である。

少しだけSFな話をすると、いまの人間の文明の行き着く先として、ほとんどの活動がヴァーチャル空間で行なわれるという『マトリックス』のような世界観は、まあまあ根強い。そして、eスポーツは明らかにその方向を向いている。僕は、映画や漫画でよくあるような「フルダイブヴァーチャル空間」というものには、実現するメリットをあまり感じない。完全なる感覚のバーチャル再現は情報として重すぎるし、できたところで単なる現実の模倣で面白みがないし、セキュリティ上も現実との区別などの問題をはらむだろう。ヴァーチャル空間では、感覚には現実とは異なるバイアスをかけた方が絶対面白いし、セキュリティ上の利便性も高いはずである。だから、それこそマトリックス的なトンデモ文脈(マシンという人間以外の知性体が人間を資源として利用するみたいな)にでもならない限り、「フルダイブ」なんてものを最優先に実現する方向には技術は発展しないと僕は考えている。フルではない部分的なヴァーチャルダイビング技術というのは、まあ時間の問題でそのうち開発されるだろうとは思う。軍事目的で。

さすがにそこまで行った未来では、お金の概念も変わっているだろうし、スポーツの目的ももはやお金目的などではなくなっているだろう。

僕の興味は、どちらかと言うと、それくらい先の時代にまでとんでしまっている。いまのeスポーツが直近10年でどうなっていくかというのは、それこそデータに基づいて最適化が進むだけだろう。あまり興味がない。今回の一連の議論は、皆さんが興味ある直近の動向と僕が興味ある数十年後との中間を埋めることを目的とした。

直近の流れを一言で言うなら、eスポーツはしばらくの間はリアルスポーツと並行して進み、いずれeスポーツネイティブ競技者が社会の担い手になれば逆転現象が起きてゆくということになるだろう。繰り返すが、スポーツとはメディアであり、メディアとは情報技術空間である。ゆえに、リアルでの強靭な肉体よりヴァーチャルで高い処理能力を持つ頭脳の方が優先される時代になるに決まっている。長期的には、時間の問題でリアルスポーツは廃れるという予想が僕の中での結論である。

人類のネイティブな身体能力の限界を測定する意味でのリアルスポーツ競技者というのは、未来ではかなり特殊な世界の住人扱いされることになるだろう。リアルスポーツこそが万人の目指す世界ではなくなり、そして、いつしかリアルスポーツこそがスポーツ足り得なくなってゆくだろう。皆さんはそう感じないだろうか。

What is e-sports?

そんなこと一つとっても、こうしていくらでも未来について考えることができる。皆さんにはどこまで思考を巡らせていただけただろうか。今回はあくまでも一つの切り口としてeスポーツというものを準備してはみたが、別に切り口は何だって良い。皆さんもそれぞれの切り口で「未来」について考察してみてくれれば幸いである。

ジェイラボはそのための場所である。

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